もう時効ですよね。



 既に何年前か忘れましたが、成さん主催のマリア様がみてるSS祭り『姉妹』に出す予定だったアレを倉庫から引っ張り出しました。
 個人的には結構気に入ってる話ではあったのですが、いかんせんマリみてとか既に記憶にない。なもんで未完で申し訳ない。
 ちなみに、話としてはチャオソレッラより前になります。由乃が妹云々で新キャラ出てない状態。
 あ、一応書けたら続き書きたいなぁ、とは思ってますが、プロット書いてなかったんでオチを思い出せないという罠。












 その争いは起こるべくして起こった。人はこれを黄薔薇再革命などと呼ぶことがあるが、私はそうは思っていない。そう、これは黄薔薇姉妹だけの問題じゃない。これは私たちの戦争だ。
 だから、私は今回の騒動を『第一次リリアン紛争』と呼称することにする。これはリリアン生たる誇りとお姉さま方への想いを賭けた熱き戦いの記録である。
                              ――新聞部部長 山口真美




















第一次リリアン紛争記 〜汝、道を改めよ〜




















☆ 1st Strike ☆
―― 開戦直前 / 求めよ、さらば与えられん ――



 それは涼やかなそよ風が薫る秋の夜長の出来事だった。
 はぁ、というこの秋の空よりも深い溜息が小さな部屋の中にこだまする。
 それを発したのは島津由乃黄薔薇のつぼみなんていう大仰な名前なんかついていたりするが、基本的には元気のいい、けど、ちょっと病弱日和で華奢な少女。
 見るものにすべからく保護欲を。とりあえず、護ってあげたいリリアン生トップ3には確実に入るであろうこの可憐な少女であるが、何故か今日は浮かない顔をしている。
 少女の心を曇らすのは恋か。いや、それはない。なんてったって彼女は好きな人と今も絶賛相思相愛中だ。
 ではなんだろう。勉強? いや、確かに机の上にノートらしきものは広げてあるが、参考書の類のものは一切ない。そのノートも白紙のまま、今はただ静かに出番を待っていた。
「……どうしよう」
 視線を向けた先はカレンダー。歴代の徳川吉宗、通称暴れん坊将軍がプリントされているお気に入りのやつだ。
 幾度か捲られたそれには今、一つだけ赤いサインペンで印がつけてある。彼女の最愛の姉である支倉令が出る剣道の交流試合。今は自分も所属している部活動である為、尚更応援に力が入るだろう。
 それはいいのだ。寧ろ、その日を指折り数えて彼女は待っている。しかし、その日が近づくにつれて彼女の表情は暗くなっていった。
 それは何故か。答えは割と明白だ。
 何故なら、さっきから当事者がそのことをぶつぶつ呟いているのだから。
「そんな……そんな簡単に妹なんてできるわけないじゃないっ」


 事の発端は体育祭の時。彼女が生来の熱血さ加減でバックに真っ赤な炎をボゥボゥ燃やしてる時だった。彼女らのいた緑チームは下馬評では赤チームと並んで最下位を争うと言われたチームであり、結果としてやはり赤チームは5位という総合成績に終わったものの、彼女らが流した汗は嘘じゃない。全力を出して得た結果は寧ろ誇らしいものとして、その瞳に映っていた。
 しかし、しかしだ。
 そんな爽やかな青春の1ページに余計な釘を刺す者が現れた。
 鳥居江利子。名前を思い出しただけでも忌々しいその人物は先代のロサ・フェティダだったりする。要するに、由乃の姉である支倉令のお姉さまだ。これまた非常に腹立たしいが。
 ぎりっと歯軋り。少しだけ、いや少しじゃないけど、その日が来て、そしてやたら小憎たらしい顔で笑う先代が見えたような気がした。何故か普段は絶対にしない筈のお嬢様面なんかしたりして、あーら、今日は由乃さんの妹を見せてくださるのではなかったかしら、とか。無論、その横にいるのは今と同じように歯軋りしながら俯いてる由乃
 あってはならない。それだけは絶対にあってはならない。もし、そんなことになったら、きっと私の怒りは天を貫いて令ちゃんお手製のケーキでも鎮められないくらいになる。と由乃は握った拳を戦慄かせた。力がないので折れはしないが、握った鉛筆も砕けんばかりの勢いだ。
 そんな風に絶対に負けられないから、彼女は必死に考えた。鳥居江利子が与えた難題『剣道の交流試合までに妹を紹介する』をクリアする為の妙案を。しかし、負けられないと誓う心とは裏腹に、さっきからノートに走らせてる妙案は揃いも揃ってロクでもない。これじゃ絶対ダメだと自分でもわかってるもんだから、由乃は何かをノートに綴っては消し、描いては破りを繰り返していた。
「はふ……」
 次第に疲れてきた。そう自覚すると、次第に睡魔も襲ってくる。見ちゃいけないと思いながらも視線を向けると、時計は結構な時間にその針を指していた。
「うーん。もう割とダメかも……」
 普段は絶対に見せない弱音が小さな唇から毀れる。時計を見た瞬間に一気に疲れが来た。瞼がじりじりと下りてくるのを由乃は必死に両頬を叩いて止めた。
「けど、私は負けられないからっ。令ちゃんの為にも負けられないからっ」
 と気合を入れ直す。瞳に灯った火は未だ衰えることを知らない。今、彼女を止められるものは存在しない。漆黒の闇に包まれた外の世界に、何故か紅く染まった夕日が見えたような気がした。
 が、
 割とあっさり萎えた。なんてったって病弱少女なのだ、彼女は。
「これなんて結構いい案だよね。昔からシンプルイズベストとかよく言うし」
 そんなことを呟いて、赤いラインで取り囲んだのは一つの構図。
 籠と棒。無論、棒には紐がついていたり。ちなみに餌は彼女が将来、誰かの首に下げてあげる筈のロザリオ。
「餌がロザリオなんてところが素敵だよね。うん」
 なんて、志摩子が聞いたら怒り狂いそうなほどに神様を冒涜した台詞をのたまいつつ、満足げに頷く由乃。うん、完璧。
 おやすみなさーい、なんて声が聞こえた。彼女の一日はこうして終わる。電気を消し、布団の中に潜った彼女は何かを成し遂げた達成感を胸に、幸せそうに瞳を閉じた。
 が、すぐ起きた。真っ暗な部屋の中で彼女の燃え上がる瞳だけが明瞭に映っている。
 布団を文字通り跳ね除けて、齧りついたのは先ほど赤ラインを引いたばかりの作戦ノート。
 疲れているはずの目は爛々と輝いていた。きゅっと結んだ唇からは、今にも高笑いが毀れそうなほど小刻みに震えている。
 どうやら、思いついたらしかった。鳥居江利子をぎゃふんと言わせる妙案を。一心不乱に何かを書き記したノートを高々と掲げて、彼女は近所迷惑なんかなんのそのってな具合に叫んだ。
「いけるっ。これなら絶対大丈夫っ!」
 あーっはははははははははははは!!!
 野良犬の遠吠えに混じって、そんな由乃の高笑いが真夜中の住宅地に響き渡る。
 ちなみに、そんな彼女の奇声を運悪く聞いてしまったご近所というか、お隣さんはと言うと、妹の不思議な行動を心配すると共に、メッチャ嫌そうな顔をしていた。
 なんかいろいろ、経験則的に。


   /


 さて、そんなことがあった次の朝、紅薔薇のつぼみこと福沢祐巳は鼻歌交じりに教室の扉を開くと、ふわりと自分の席へ越しかけた。
「あ、祐巳さんごきげんよう。なんだかすごくご機嫌ね」
「え、そそ、そんなことないよ。別に」
 と、顔を無理に強張らせて。後から思い出したように慌ててごきげんよう。顔を真っ赤に染める。
 そんな祐巳を見て、蔦子は思う。あー、こりゃなんかあったな。ついでにシャッターも切る。多分、本日のベストショットをゲット。
 こういう何気ないところが祐巳の魅力だと思ってる蔦子。いよっしと今この瞬間に立ち合わせられたことを天に感謝。現像したそれに想いを馳せて、心はここにあらずで夢心地。
 だから、廊下から聞こえる不穏な足音にも、その足音が奏でる禍禍しさにもまったく気が付かなかった。そのことについては幸か不幸か。きっとマリア様だけが知っている。


 祐巳がこうまでなってしまったのには蔦子の予想通り、やっぱり理由があった。
 それは祐巳リリアンの正門を通った時の出来事。後ろから聞き間違える筈のない声が聞こえて、まさかとは思いながらも振り返ってみると。
ごきげんよう祐巳
 まるでこの秋の空のように爽やかな彼女の姉――小笠原祥子の微笑みがあった。
 一瞬だけそんな姉に見とれてしまう祐巳。心臓のバクバク撥ねる音が聞こえる。けれど、もう祐巳も随分と長く彼女の側にいたのだ。すう、と深呼吸して気を落ち着けた。この辺はもう、慣れっこだ。
 と、そのお姉さま、ずずいと祐巳に歩み寄る。いや、姉妹なんだし、途中まで一緒に行くくらい割と当たり前のことだと思うけど。
 それにしても近すぎる。
 なななななんでーーーーーーーーーっ!!!
 そんな絶叫が祐巳の胸の中でこだまする。もしかしたら、このままきゅっと抱き締められちゃったりして。
 そんな事あるわけないか。とか思いながらも、心の底からそれであって欲しいと願う。こんなたくさん人がいるところで、きゅっとされちゃうのはなんだか恥ずかしいけど、でも……嬉しい。
 そして、祥子がゆっくりと祐巳に手を伸ばし、祐巳は期待と不安と気恥ずかしさにくるくると心が踊りながら、静かに瞳を閉じた。
「こらっ」
 こつん。
 あいたっ。
祐巳、またタイが曲がっていてよ。まったくいつになったら、こういうことがきちんとできるようになるのかしらね」
「あの……それじゃお姉さま、私がいつもだらしないように聞こえるじゃないですか」
 軽く小突かれた頭を摩りながら少しだけ恨めしそうな目を祥子に向ける。お黙りなさい、なんてお叱りの言葉を戴いた。
 確かにお姉さまがきゅっとしてくれるなんてあるはずないというか、そんなことするのは聖さまくらいのものなんだけれど、それでも一度期待したものをなかなか諦めることはできない。というか、なんでまたそんなことを考えたのかもよくわからないけど。
 そんなこんなでじとーっとした瞳を祥子に投げ掛け続ける祐巳。けれど、その熱い視線も何処吹く風、投げ掛けられた本人は祐巳のタイを直す。微かに布が擦れる音が聞こえて、祥子がふわりと離れると、祐巳の首下に掛かってタイは見違えるくらい綺麗に整っていた。
「はい。今日は直してあげたけれど、これからはちゃんと自分でおやりなさい。それでなくても祐巳はいつも心配なんだから」
 わかった? そう問いかけられて、祐巳はなんだか複雑な気持ちになってしまった。嬉しいのか残念なのかよくわからない。だから、じと目で少しだけ頬を膨らませた、さっきのままの表情で先に校舎へと向かい始めた姉を追った。
「お姉さま、私だってそんないつも失敗ばっかりしてる訳じゃありません」
 なんて少しばかり意地が悪い言葉を。けど、それに対して返ってきた返事は祐巳にとって意外なものだった。
「そうね」
 あれ? と祐巳はきょとんとした顔になって隣りを歩く姉へと視線を向ける。そんな祐巳を知ってか知らずか、祥子は祐巳に顔を向けることなく話を続けた。
「でも……それでも私はいつも心配なのよ。そうでしょう。だって、私は――」
 ――祐巳のお姉さまなんだから。
 そう告げて、ようやく祐巳の方を見て微笑んだ。
 不意打ちを食らってぽかんとしてる祐巳はようやく気付く。そして、すごく嬉しそうに顔を緩めると、すぐ隣りで揺れている腕に抱き付いた。
「お姉さま、大好き!」
 抱き付かれた祥子は少しだけびっくりしたようだけど、それでもすぐに微笑みを返して――。
「それじゃあ、行きましょうか。そろそろ急がないと遅れちゃうわ」
「はい!」
 少しだけ早歩き。
 だけど、その腕は離さない。
 だって、それは祐巳のお姉さまなんだから。
 羨ましげにそんな様子を眺めるまわりの生徒たちを牽制しながら、祐巳はなんとなく由乃がいつもまわりに威嚇する理由がわかったような気がした。
 だって、祥子さまは私のお姉さまだもん。


 なんてことが今さっきあったから、顔は未だにふやけたまま、幸せ絶頂の祐巳なのである。
 さて、そんな祐巳だからこそ、まわりのクラスメートたちが徐々に自分から離れていっていることに気付かなかった。ついでに、忍び寄る――いや、堂々と床を踏み締めてるけど、それでもその不吉な足音にも気付くことがなかった。
 そして、それが今回の事件がここまで大きくなった鍵を握ることになる。


祐巳さん!」
 バン! と机を叩く大きな音が聞こえて、ようやく祐巳は現実の世界へと舞い戻った。
 目の前には何時の間に来たのか、少しだけ息を弾ませている由乃の姿。多分、遅れそうになって、少しだけ急いだりしたのかな。と、祐巳は平和的に解釈した。なんといっても今の祐巳の頭の中はお花畑の中で天使たちが幸せのラッパを吹いているような状態だ。平和とは即ち愛。愛と平和は同義語。姉のちょっとした言葉でトリップしてしまう困ったさんがここにいる。
 ふえ? とだらしない声を返した祐巳。そこで、いつもなら「祐巳さん、どうしたの? ――ああ、訊くだけ野暮ってもんね」との言葉の一つや二つくらいは返すのだが、今日の由乃は止まらない。まさにノンストップ暴走機関車。ここのクラスメートたちは結構慣れたもんだったりするが、未だに儚げな少女のイメージを持っている一部の上級生がこの姿を見たら、卒倒しかねない勢いで色ボケしてる祐巳に訊ねる。
「私たちって、トモダチだよねっ!?」
 いつもの祐巳ならここで普段と幾分か様子がおかしい由乃を警戒するだろう。とりあえず、半歩離れる。それから、親友として、なにかよからぬことが起きる前に由乃を鎮めにかかるのだ。
 だが、非常に残念なことに彼女の脳は今、とろけていた。
 だから、そんな怪しい由乃に対して、なんの疑いもなく答えてしまった。
 うん、友達だよって。
「うん。そうだよね。祐巳さんならそう答えてくれるって思ってた。だって、私たち親友だもんね。そんな親友の祐巳さんなら、困ってる親友を見捨てたりしないよねっ」
 さて、いよいよ雲行きが怪しくなってきた頃、ようやく祐巳は正気に戻ってきた。そして、自分の軽々しい発言に涙が出るほど後悔しながらも、恐る恐る訊ねる。
「ええと……ちなみに……なにするの?」
 待ってましたとばかりに由乃は飛びついた。心なしか、目が怖いほど輝いてる。というか、寧ろ怖い。すげえ怖い。
「これはね、私だけじゃなくって祐巳さんにも大切な運動よ。祐巳さんだって妹、まだいないでしょ?」
「……うん、まあ……」
 嫌な匂いがぷんぷんしてきた。気の毒そうに眺めるまわりのクラスメートたちに恨めしそうな視線を送りながら、祐巳はなんとなく令がいつもどんな感じで由乃に困らされているのかわかったような気がした。
 いや、だって、さっきから胃がキリキリ痛いし。
「それに、きっと妹を作れなくて困ってる人が他にもたくさんいると思うの。だからね、私、考えたの。そもそも、こういう時は足元を攻めるのがいいって時代劇見ててもわかるし」
 いや、時代劇は少し違うんじゃないかなー。
 実はメッチャ違うとか思いながらも、そんなことを呟いてみるも走り出した由乃には一向に効果が見られない。触ったら火傷するんじゃないかと思うくらいにヒートアップした由乃の演説は止まることを知らなかった。
 で、いい加減、由乃が何を言ってるのかわからない祐巳さん。思わず訊ねてしまいました。勿論、後で死ぬほど後悔するだろうとは思うけど、それでも進むべき道はこれしかないんだろうから。
「で、要するに何するの?」
「そう。要するに――」
 一息溜めを作る。祐巳がそんな由乃に押されて、思わずごくりと唾を飲んだ。
 そして、賽は投げられた。


「スール制廃止運動よ!!」


 やっぱりすごく後悔した。 
















☆ 2nd Strike ☆
―― 戦争勃発 / 迷える仔羊らよ、我に続け ――



 はぁ、と溜息が聞こえたのは全校生徒の憧れの視線が集中している薔薇の館。普段のそこは三薔薇と呼ばれる山百合会幹部たちが揃っているだけではなく、その妹やそのまた妹、果ては彼女らを慕ってやってきた一般生徒たちまでいて、それなりに賑やかな様相を呈している。
 しかし、今その場にいるのは二人だけ。小笠原祥子支倉令だけだ。志摩子乃梨子はさきほどちょっとしたお使いを頼んでいて不在。由乃祐巳に至ってはまだこの場に現れてさえいない。
 はぁ、ともう一度、ロサ・キネンシスの憂鬱が響き渡る。その溜息の原因は、まだこの場を訪れていない二人の内の一人にあった。いや、原因というか、結局は二次災害な訳だが。
「ううううう……。由乃ぉ、私、なんか悪いことしたのー」
 不貞寝するように机の上で打ちひしがれ、ルルルーと涙を流すのはミスター・リリアン。普段は凛々しいその背中が今やしがない中年男性の哀愁で満ち溢れている。流れた涙が机の上に小さな海を作り、そこから毀れた雫は床に転がった書類に大きな染みを生み出していた。
 そんな令に祥子は呆れたような視線を向ける。やれやれ、と肩を竦めて、突っ伏した令にめんどくさそうに言った。
「令……仕事しなさい。ただでさえ人手が足りないのだから」
「だって、だってぇー。由乃がスール制廃止運動なんて始めちゃったんだよ。私はもういらないの? ねえ、答えてよ、由乃ぉ……」
「ああ、もう鬱陶しい……」
 本当に、鬱陶しい事この上ない。再び突っ伏して泣く令を今度こそ放っておく事にして、祥子は机の上に載っていた一枚のプリントに目を向けた。
 スール制廃止運動における署名のお知らせ。プリントの上部にでかでかと書かれたタイトルの下には、ご丁寧に『姉妹なんてもういらない。私は皆の為に生きたい』なんていうサブタイトルまで付いていたりする。
 内容はえてして簡単なものだった。そのプリントには、スール制によって一人が一人の指導をするという今の体制を批判する内容が書かれている。曰く、上級生はすべての下級生に平等に指導を。まるで数十年前の学生運動を彷彿とさせるような赤色の嵐の再来である。
 さて、令をこんなにした原因はここではなかった。というか、仮にもロサ・フェティダである令がこの程度のことでこんな醜態を晒す訳がない。いや、結構大事だったりするが、それでも流石にここまで情けなくはならない。
 問題はプリントの一番下にあった。
 ――スール制廃止準備委員会代表 島津由乃
「やっぱアレだよ。きっと二年前に私が由乃の残しておいたケーキを勝手に食べちゃったのを怒ってるんだよね。ごめんよぉおお、由乃ぉおおお――」
 何やら過去を思い出し、一人勝手に今までのちょっとした悪行を晒し始めた令。そう言えば、5年前に由乃の大切にしていたビデオを上書きしてしまってすみませんとか、10年前に由乃が風邪ひいて寝込んでいる時に暇だったもんで顔に落書きしちゃってすみませんとか。なまじ付き合いが長い分、思い当たる節が多々ありすぎてどれが原因になったのかわからないようだ。
 まあ、もっとも――。
由乃がそんな細かいことを憶えてる訳がないと思うのだけれど」
 祥子のそんなツッコミに「何をっ」と返す令。
 曰く――。
由乃のしつこさというか、ねちっこさは折り紙付だよ。それで私がどれだけ苦労して」「あら、由乃」「嘘です嘘です。全然由乃はしつこくもないし、ねちっこくなんかもないっ。すごくいい子っ。だから、許してぇ!」
 そこで祥子は本日3度目の溜息。ただでさえ忙しいというのに、由乃が来たという嘘にしっかりと騙され、部屋の端っこで頭を抱えながらガクガク震えている令は本当にどうしようもないくらいに使えない。しかし、少し由乃が離れただけでこうまで壊れてしまうとは……実はおんぶだっこだったのは由乃じゃなくて令の方じゃないかと疑いたくなる。
 と、そこでガチャリとノブが回る音がした。もしかしたら、祐巳かしら。だったら、なんとか由乃のことを説得してもらおう。令の次に由乃と近いのはあの子だし。なんて期待を膨らませたけれど、結局ドアから姿を見せたのは先ほどお使いにいった志摩子乃梨子の二人。
「二人ともお疲れさま」
「いえ、それは別に構わないんですが……」
 少しだけ表情を翳らせて志摩子。隣りの乃梨子も少し疲れたような表情で頷く。
 そんな二人の様子を見て、祥子は二人に一体何があったのか大体予想がついてしまった。
「……一応、聞いておくけれど、何を訊かれたの?」
「要約しますと、あの運動は山百合会の総意によるものなのか? なのですけど」
「そう……。まあ、由乃が運動の代表をしているものだから、そう疑われるのも仕方のないことね」
 ふう、と息を吐く。志摩子も困った表情で、そんな祥子に同意した。
「あと、これは先生方に伺ったんですけど、こういった運動は過去にも何度かあったそうです。ですが……」
 代わって乃梨子志摩子の前に立つ。
山百合会の人間が関わったケースは今回が初めてだそうです」
「そう……」
「ええ、だからこそ、生徒はおろか、教師陣でさえ今回の状況に戸惑っている方々が多いみたいです。ただ、すぐ厭きるだろうという感じのこの件について楽観視する意見も同様に多いので――」
「……そうね。なんで急にそんなことを始めたのかはわからないけれど、気が済むまで見守ってあげるのが私たちの役目かしらね」
 ――令もあんな状態だし。と話を続けようとして気付いた。部屋の隅――先ほどまで令が泣きながらのの字を書いていた場所にその姿は忽然と消えてしまっている。代わりに、すぐ自分の後ろに紅茶のカップを持った令の姿が。
「立ったまま話をするのもなんだし、とりあえずみんな座ろうよ。今、お茶入れたんだ」
 流石はミスター・リリアンと言ったところか。どうやら、少なくとも祥子以外の人間にはあー言った物凄く情けない姿は見せたくないらしい。ありえないほどの変わり身の早さ。
 しかし、ここに令なんか問題にならないくらいに変わり身の早い人がいることを忘れてはならない。しかも、令と違ってこの人は他人の目なんか全然気にしたりしないもんだから余計に性質が悪い。
 とりわけ、今回その爆弾を投げ込んだのは変わり身仲間の黄薔薇さま。要するに、令なわけだが、この一言がなかったら、きっともう少しマシな方向に歴史は動いていたと思うのだから、事実は小説より奇なり。昔の格言をあやかろう。
 そんなこんなで爆弾発言。
「というか、私はなんでそんなに祥子が落ち着いてられるのかが不思議なんだけど」
「どういうことかしら?」
「いや、だって、その紙、私は祐巳ちゃんから渡された訳だし。多分祐巳ちゃんも参加してるんじゃないかな、この運動」
 と、件の紙をペラペラ煽りながらのたまう黄薔薇さま。それに対する紅薔薇さまは『祐巳』という単語が出た瞬間に、今まで優雅に嗜んでいたお茶を吹き出して、そのままぎゅるりっと一回転。……しちゃうんじゃないかって勢いで首が令の方に向いた。
 怖い。とても怖い。首も怖いけど目も怖い。どちらも共に座ってらっしゃる。いや、首の方はまあ、そら当然な話な訳だが、時にさしものミスター・リリアンもこの祥子にはビビった。令でこれなんだから、他の可憐な少女たちが見たら、ひきつけを起こして入院しかねない。
 かくして、不幸にもそれを間近で見てしまった、まだ薔薇暦の浅い乃梨子ちゃんは、鬼怖い紅薔薇さまを見てぎょっとしてすぐ横に座ってた姉の服に縋るが、流石は慣れたものなのか、マイペースな白薔薇さまは「大丈夫よ」って視線で合図。
 今ここで、自分のお姉さまの偉大さを改めて実感したロサ・ギガンティア・アン・ブゥトンであった。そして、こんな感じでいつもお互いに助け合っているものだから、この姉妹の絆は、深い。
 ともあれ、引き金はついに両方から引かれちゃった訳である。双方の原因は案の定黄薔薇姉妹。やっぱり彼女らはそういう星の下に生まれてきているのだろう。
 となると、紅薔薇姉妹は大方巻き込まれの星か。まあ、どっちに転んでもロクな目にあわないことだけは共通している。
 お姉さまが志摩子さんで本当に良かった。私も、いつか志摩子さんみたいな薔薇さまになろう。
 どんな状況下でもいつも優雅にお茶を嗜める志摩子を見ながら、心の底からそう思った乃梨子。首から下がったロザリオを絶対離さないようにしっかり握り締めて、今だけは異教の神に最大の感謝を。
「何故っ!? どうしてっ!? 由乃はともかく、うちの祐巳はそんなことする子じゃなくてよっ」
「ぎ、ぎぶ……首、極まってるってば……ていうか、うちの由乃だってそんなことする子じゃないやい」
乃梨子、お茶のおかわり、いる?」
「……うん。え、あ、はい」
 やっぱ無理。てか、志摩子さん何かおかしい――。
 とか、視線をあっちこっちにさ迷わせてる乃梨子はあくまでもマイペースな姉に対してそんな風に思いましたとさ。
 けど、実は現実逃避してるだけだったりして。


   /


「くしゅんっ」
「あら、風邪ですか、祐巳さま」
「ううん。そんなことはないけど……」
「でしたら、きっと誰かが噂なさってるんですよ」
「うーん。そんなこともないと思うけど……」
「それでしたら、やっぱり風邪かもしれないでしょう? 今年の風邪は性質が悪いそうですから、十分お体を気遣ってあげてください」
「そうだね。ところで、瞳子ちゃん」
「はい?」
「いつまでここにいるの?」
祐巳さまの真意がお聞きできたら、ですわ」


 リリアン女学園は由緒正しいお嬢さま学校である。しかし、厳しい規律で雁字搦めにしてるのかと思いきや、実は生徒の自主性を奨励したそれなりに自由度の高いシステムが取られていた。
 よって、祐巳たちがこうして学内にある会議室を借りられたことも別段特別なことではない。例え、山百合会とは関係のない一般生徒であっても、きちんと申請さえ行えば自由に学内の施設を利用することができる。尤も、施設の絶対数に限りがある為、しばしば予約待ちや時間制限などの制約を受けるようではあるが。
 それを考慮すれば、祐巳たちの扱いは格別なものだった。仮にも山百合会に属している者が二人。それを鑑みての処置だろうか。比較的小規模な会議室ではあるが、それでも時間的な制約は受けなかった。
 という訳で、ほぼ貸し切り状態の会議室の中に祐巳たちはいた。由乃は今、運動の根回しを各部署に行う為不在。運動といっても、今の正式な構成員は由乃祐巳の二人だけな為、実質的に部屋にいる人間は一人という筈なのである。
 では、何故祐巳たちなんて表現をしたのか。それはこの部屋に見知ったお客さんが来ているからである。


「真意って言われてもなぁ……」
 単に巻き込まれただけだし。なんて苦笑いしながら答える祐巳
 そんな祐巳の対応を瞳子は不満だったようだ。はっきりされたらどうです。それでも紅薔薇のつぼみなのですか。なんてことを言おうとして。
 横からの声に遮られた。
「あら、祐巳さまの真意なんて……そんなこと決まってるじゃないの。そんなこともわからないのですか? 瞳子さん」
 くすっと思いきり小馬鹿にしたような笑みを浮かべたのは可南子。実は、この場にいるのも紅薔薇さまから祐巳の様子を二人で見てくるように頼まれたからなのである。これは非常に不愉快なことであるが、どうやら薔薇の館の面々は瞳子と可南子をセットで考えてる節がある。
 ともかく、何処かトリップしたこの女は、その無駄に長い髪を振り回しながら、祐巳の真意とやらを熱弁する。
祐巳さまはいずれこの学園の頂点に立たれるお方。そんな祐巳さまにとってスール制なんて害悪でしかない――」
「あら、祐巳さまは仮にも紅薔薇のつぼみですのよ。それならスール制を継続させた方が楽に天下を取れるのではなくて?」
 ちぃ。と苦虫を噛み潰されたような顔で可南子。悔しそうに歯軋りする彼女を前に瞳子はしてやったりと得意げに鼻を鳴らす。
「でしたら、きっと私のこの想いが届いたのですわ。祐巳さまにお姉さまなんてものは必要ない。誰かの下についている祐巳さまなんて私は見たくないもの」
「あらあら。それは可南子さんの妄想でしょう? 祐巳さまのお気持ちとは大分かけ離れているようですが、それでも祐巳さまのファンなのかしら」
 くすり。と瞳子。勝ち誇ったようなその眼差しに可南子はわなわなと震える拳をさらに握り締めた。
 そんな可南子の雰囲気を読んだのだろう。瞳子も負けじと手の平に力をこめる。
 一瞬即発。両者の間に紫電が飛び交う。堪らないのはその間に挟まれた祐巳。感電死しそうなほどの重圧に、今にもその場でへなへなと倒れ込みたい心境に駆られる。それでも、砕けそうになる自分の心を必死に奮い立たせて、多分自分の為……なのかどうかわからないが、それでも争う二人を止めようと声を出した。
「あ、あのね」「祐巳さまは黙っていてください。これは私とこの粘着女の問題ですので」「そうですわ祐巳さま。今は祐巳さまのお手を煩わさずともこの不愉快なドリルを視界から消してみせます」「いや、だから、あの」「誰がドリルですの?」「さあ? それよりストーカー紛いの粘着女とは誰のことかしら?」「はぁ……」
 もはや処置なし。選手入場のすんだ二人は試合開始のゴングがなるのを今か今かと待ち侘びている。
 そして、その1ラウンド目開始の合図がカウントダウンに入ったちょうどその時だった。
 救いの手が、意外なところから現れたのは。
「はいはい。二人ともストップストップ」
黄薔薇のつぼみ?!」
祐巳さん、困ってるでしょ。そのくらいにしておきなさい。それに二人ともケンカする為にここに来たんじゃないでしょう?」
 手をひらひらさせながら。そんな由乃祐巳は目を輝かせながら最大の感謝を。助かったよ、由乃さん。
「一つ貸しね」
 そんなことをのたまう由乃祐巳は顔をどんより曇らせて。えー。というか、そしたら、私はいくつくらい貸しがあるんだろう、とか考えてみたり。多分由乃さん的には借りなんて一切ないんだろうけれど。
「そうですわね。それでは――」
 コホンと気を取り直して瞳子。未だに爪を収めていない可南子に牽制しながら、あくまでも優雅にくるりと向き直る。
 また私が矛先に……とか祐巳は思った。瞳子の表情は先ほどにも増して厳しい。はたして、どのような追求を受けるのかと、胃に穴が開くような心境で彼女の言葉を待った。
 しかし、彼女が問いを向けたのは顔を引き攣らせている祐巳ではなく――。
黄薔薇のつぼみ。貴方にもお尋ねせねばなりません。一体、どのような意図でこのような愚かな騒ぎを起こされたのですか?」
 スール制度という伝統に憧れ、ずっと高等部に籍を置くことを心待ちにしていた瞳子。自然と視線に険悪なものが混じる。
 だが、由乃はその厳しい視線を受け流した。あくまでも自然に。どこまでも自分のままで。
「意図も何もそのままの意味よ。単に私がスールという制度を嫌っただけ。それ以外にないわ」
「そのお言葉、そのままロサ・フェティダにお伝えしてもよろしいのですか」
「ええ、構わないわ。私は確固たる信念を持って、この場にいるの」
 堂々と、そう告げる由乃はどこまでもかっこよかった。
 思わず拍手しそうになるのを堪えながらも、祐巳由乃のそんな姿に、少しだけ手伝ってよかったかもなんて考えがようやく浮かび始めていた。


 静まりかえった室内では、未だ先ほどの緊張が緩まってはいなかった。あれから、幾ばくの時が流れたというのに瞳子はその視線を由乃に向けたまま微動だにしない。由乃もそんな瞳子と向き合い、涼しげな微笑を浮かべ続けていた。
 時計の音が、そして何より心臓の鼓動が、嫌に大きく聞こえる。先ほどから視線が行ったり来たりしている祐巳は、痛む胃を抑えながら考える。
 どうすればこの場を抑えられるのか、ということを。
 不意に視線を感じる。その先にいたのは可南子。彼女もまた、その二人の作り出す空間に入り込めず、ただその場の空気に身を委ねることしかできないようだ。少しだけ困ったような表情をした可南子はその一瞥だけ祐巳に向けると、すぐに二人へと顔を向ける。
 それは私になんとかしろってことかな?
 なんとなく、そう感じた。確かに可南子はこういう役回りを演じたことはないだろう。寧ろ、その逆の方が圧倒的に多い。その点、祐巳はこういった役には慣れていたし、何より彼女よりも一つ上の上級生、そして、その見本となるべき山百合会の一員だ。
 ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンとして、何より福沢祐巳として、彼女の真価が今、問われている。今、後輩の期待に応えられるのは他ならぬ祐巳しかいない。だとしたら、収めねばなるまい。この胸で輝くロザリオに誓って。
 と、必死に作戦を練り始めたところで、由乃が動いた。つかつかと、微かに足音を響かせながら、厳しい視線を辿るように瞳子の元へ向かう。
 そんな由乃の行動に、瞳子も驚いたようだった。だが、少しだけ呆気にとられた顔も一瞬、すぐに表情を戻して、厳しげな視線を自分に近づいてくる黄薔薇のつぼみに向ける。
 手が届く、そんな位置まで由乃瞳子に近づいた。そこで、由乃はにっこり微笑むと、瞳子にしか聞こえないように耳打ちをした。
「時に瞳子ちゃん。確か、祥子さまの妹になりたかったんだよね。だったら、スール制なくしちゃったら、その席空くよ?」
「っ?! ですが、その時には妹としての立場なんてなんの意味もなくなっているのでは?」
「あれだよ。なくしちゃった後にもう一度作っちゃえばいいのよ。そしたら、もう祐巳さんは祥子さまの妹ではなくなる。瞳子ちゃんは念願が叶う」
「……しかし、それでは由乃さまは」
「私は別にほんの少しの期間だけなくなればいいの。だから、ほんの少しだけ、主に令ちゃんの剣道の試合が終わるまでくらいまでなくならしてくれれば後はそのまま廃止も復活させるのも自由」
「……」
 瞳子は一瞬だけ視線を宙にさ迷わせ、考えた。
 だが、考えたの本当に、ほんの一瞬だけの事だった。


「一体、由乃さんは瞳子ちゃんに何を吹き込んだんだろうね?」
「さあ。でも、私は祐巳さまとこうしてご一緒できるだけで幸せですわ」
 さほど広くない会議室には、如何にして固定票を生み出すかという活発な討議で満ちている。一方はこの運動の主催たる由乃。もう一方は先ほどまで反対派にいた筈の瞳子
「やはり部活関連は予算等の物欲を煽るのが一番よろしいのではないでしょうか?」
「うーん。けど、それだとリリアン校則第68条に引っかかるのよね。どうしたものだか」
 こうして、スール制廃止運動に新たな仲間が加わった。松平瞳子細川可南子。一年生とはいえ、元々四面楚歌にあったこの運動に賛同者が現れたことは大きい。しかもこの二人、薔薇ファミリーとして名を連ねてはいないものの、共に山百合会によく顔を出していることで世間的にも知られていた。
 と、そこで祐巳は思い出したように言う。視線はやや上向け。人差し指を頬にあて、ぽつりと。
「そう言えば、由乃さん、さっき部活票の取り纏めに行ってたんだよね。それ、どうなったの?」
 その一言に、由乃は僅かに顔を曇らせる。そして、少しだけ逡巡した後、答えた。
「少し悪い知らせ。大体の部はこちらに向かせることはできなくても、最低浮動票として取り扱うことができるようにはなったけど――」
 おおー。と声が上がる。固定票が生まれやすい部活票で、そのような状況まで持ち込めたことは大きい。それなら、不利は否めないものの、まだ戦うことはできる。
 だが、由乃の顔は晴れなかった。少しだけ声のトーンを落として、憎らしげに顔を顰めると言った。
「新聞部が敵に回ったわ。正確に言うと山口真美さんを、だけどね」


   /


「聞いたわよ」
「あら、お姉さま、ごきげんよう
 扉を開けてまず感じたのは、その部室の寒々しさだった。ただでさえ西日の当たらない位置にある上に、薄いカーテンが窓ガラスを覆っている。
 夕闇に紛れて、彼女の声。部室の中にいる事は確かではあるが、それにしても薄暗い。電気でもつければいいのだが、それをしないのは本当に切羽詰った時、自分がそういう状況を好んだからだろうと三奈子は自惚れることにした。
ごきげんよう。それよりも真美、あなた……」
「仰りたいことはわかっています。お姉さま」
 部屋の端、薄暗い室内の中でもさらに一歩光のないところに彼女はいた。一年前まで自分が使っていたワープロの光に照らされて、不気味に薄く笑っている。
 そんな真美に三奈子は僅かに気後れした。まるで自分の知っている妹ではなくなってしまったような、そんな感覚を覚えたからだ。
「それにしても……流石はお姉さま、情報が早いですね」
 薄く口を歪ませてくすくすと声を上げる真美に、三奈子は少しだけ息を吸って答える。
 もう、先ほどまで持っていた激情は霧散していた。まるで冷や水をかけられたような感覚。冷静さを取り戻した彼女は、少しだけおかしい妹の様子に合わせて、頭を切り替える。
「当然よ。情報は常に新鮮であれ。あなたにも教えた筈よね」
「ええ。教わりました。他にもたくさん……たくさんのことを教えて頂きました……」
「だったら、どうしてあんなことをしたの?」


 始め聞いた時は信じられなかった。三奈子は妹にすべてを託したつもりでいたからだ。
 今最も旬な話題といえば、薔薇たちの妹が起こしたスール制廃止運動である。新聞部を引退した今も興味を持った事柄に関しては自分で調べるようにしている。何が原因で起こったのか、紅薔薇のつぼみが朝に紅薔薇さまに怒られている姿を目撃されているところから、不仲説が今のところ有力である。ただ、代表が黄薔薇のつぼみであることが解せないし、何より判断する材料が少なすぎる。紅薔薇のつぼみ黄薔薇のつぼみを唆し、トップに祭り上げたという説も福沢祐巳という人格を考えれば、まずありえない話だった。
 そうして、情報を集めている内に自分のよく聞く名前を耳にした。
 曰く、新聞部部長の山口真美が運動に反対している。
『いい? メディアは第三者に公平に情報を提供しなければならないの。視聴者の欲する話題が例え自分にとって好ましくない話題であっても、ね』
 在りし日の記憶が蘇る。それは、彼女が初めて、三奈子の妹になってから新聞部に訪れた時のこと。
 それは、今みたいな夕闇が混じった時刻だったと思う。朱色の夕日が眩しかった。紅色に染まった部室に二人きり。三奈子と真美。真美の胸には、まだ垢抜けていないロザリオが微かに揺れている。
 そんな中で三奈子は真美に、一番大切なことを教えた。それは新聞部として、メディアに関わるものとして、なくてはならないもの。
『そんなこと、言われなくてもわかってます』
 顔を逸らして、初めてそこで「お姉さま」と言ってくれたあの時。
 彼女は、この子なら大丈夫だ。この子なら安心して新聞部を任せられる。なんて柄にもないことを考えてしまったあの紅色の時。
 それが今――。


「メディアは公平であれ。なのにあなたは、本来なら第三者として報道しなければならないこの運動に対して主観を入れてしまっている」
 三奈子の言葉を真美は俯いたまま聞いていた。表情は薄闇に紛れて読み取ることはできない。
 そんな真美の様子を意に介さず、三奈子は続けた。
「教えたはずよね。あなたも憶えてるはずよ。私はあなたにすべてを教えてつもり。けど、それなのに――」
 何故?
 真美が肩を震わせた。胸元に置いた手は、今は固く閉じられている。
 ワープロの画面から漏れる光。それに照らされた彼女から光が毀れた。
 それが涙だと気付くのにどれくらいの時間を要したであろう。彼女は泣いていた。一度毀れた涙は止めど無く溢れて、嗚咽交じりの吐息は堪えきれずに宙に舞う。ぎゅっと握り締めていた手は、きっと服越しのロザリオに縋り付いていたのだろう。閉じた手が小さく震えていた。
「許せなかったんです」
 ぽつりと真美が。必死に溢れ出る感情を堪えようと、無理に作った無機質な声色と共に。
「私はお姉さまから、たくさんのものを戴きました。お姉さまがいたから、今の私がいるんです」
 そんな真美の独白に三奈子は静かに耳を傾ける。
「なのに、由乃さんたちは……私とお姉さまの絆を奪おうとしてる。そんなの……」
 絶対に許せません――。
 押し殺していた感情を堪え切れなくなったのか、真美は堰を切ったように泣き出した。
 しゃがみ込んで、顔を両手覆った妹の姿を、三奈子は見つめ、僅かに嘆息すると踵を返して、暗闇に沈んでいく部室を後にした。
 ただ去り際に一言だけ残して。
「あなたの考えはわかったけど、メディアに関わる者として、それは賛同できないわ」
 ピシリ、とドアが閉まる音が聞こえる。
 取り残された真美は、しばらくそのまま泣き続けた。そして、それが落ち着いても、彼女はそこから動こうとはしなかった。
 三角座りのままで、ただぼんやりと姉から譲り受けたワープロの画面に視線を漂わせている。
「……お姉さまに呆れられちゃったかな」
 いい妹であろう。そう思って今までずっとやってきた。けど、それも今日で終わり。今の彼女に対する姉の評価は今までとは比べ物がないほど地へ堕ちてしまっているだろう。
「でも、許せないから」
 ぽつりと呟いた声。しかし、それは今までのそれではない。吹っ切れた力強さに満ちていた。瞳に焔が燈る。
 外はすっかり夜の闇に沈んでいた。そんな中で彼女はゆっくりと立ち上がり、ワープロの前に立つ。戦いはこれからだ。泣いてばかりはいられない。
 ふと、脳裏を掠めたのは、あの日の彼女と三奈子の姿。大切な思い出と、優しかった姉への想い。
 そんなささやかな幸せを壊されたくない。奪われたくない。だから、彼女はただがむしゃらにキーボードを叩いた。


 そして、次の朝、部室に入った新聞部員たちが見たのは完成した原稿と、毛布をかけられて眠っている部長の姿。
「絶対に……負けられないから……」
 そんな寝言が部員たちの耳に小さく響いた。












☆ 3rd Strike ☆
―― 戦時発令 / 当方に敵なし。ただ只管前へ ――



 例え何処かおかしくても、薔薇さまの力に翳りなしと言ったところだろうか。
 スール制廃止準備委員会設立から遅れること僅か一日、薔薇の館を本部としたスール制保全保護推進委員会がスピード設立された。代表に紅薔薇黄薔薇の両薔薇さまを置き、さらには情報管理統制委員として、先日廃止委員会と反目した新聞部の山口真美が就任。これに伴い、新聞部との提携も既に決定しており、今まさに平和なリリアン女学園は二つの大きな力によって、その身を戦いの渦中へと置こうとしていた。
 今、純粋無垢な乙女であるリリアン生にとって、最もトレンディな話題と言えば、まさにこの二つの組織、そのどちら側につくかということである。そして、それはまだリリアン高等部という地に馴染みきれていない一年生の間でも例外ではなかった。


「ねえ、あなたはどちらの味方をされるの?」
「私は保護委員会に行こうかしら。ほら、この前、椿組の亜里抄さんがロサ・フェティダとその話でお近づきになれたとか」
「けど、それなら廃止委員会には紅薔薇のつぼみがいらっしゃるのよ。私は断然こちらかしら」
「なら私たちは今から敵ですわね」
「そうね。では、ごきげんよう
ごきげんよう


 そこかしこから微妙にピントのずれた、やや殺伐風味な会話が聞こえる教室内。その中にあって、乃梨子はうんざりした顔で溜息を吐いた。
 彼女の目の前には3人の生徒たち。内二人はクラスメートだがもう一人は記憶にすらない。恐らく、他クラスからわざわざやってきたのだろう。
「それで、乃梨子さん」
「ああ、うん。私は無所属。この運動にはどちらにも荷担してないよ。それはお姉さまも同じ」
 言いたいことはわかってます、とばかりに本日5度目の返事。それに満足したのか、その3人は乃梨子の席を離れるとやはりどちら側につくかで議論を始めた。
 疲れたように机に突っ伏す。今だけは、こんな状況に巻き込んだ祐巳由乃が恨めしい。普段は優しくて綺麗な先輩方なのに、脳裏に蘇る二人の姿は何処までも厭らしい笑みを浮かべた、さしずめ男の子がよくやるRPGのラスボスみたいだった。たぶん、この比喩あんまり間違ってない。
ごきげんよう、大変ですわね、乃梨子さん」
 声がして、はっとして振り向くと、そこにはいつもの笑みを浮かべた瞳子の姿があった。そんな彼女の微笑みにほっとする。普段は別にそうでもないが、今だけは何故か菩薩様のように優しく映るから不思議。
ごきげんよう。ホントに大変だよ、瞳子
「まあ、すぐにこの騒ぎも収まりますわ。あと少しの辛抱。それまで頑張りなさいな」
「そうだよね……」
 教師の間では未だにこの騒ぎがすぐに収まるという見立てが強い。そして、その意見については乃梨子も同意だった。
 まだ薔薇の名前を語る者としては若輩者だが、それでもすぐ近くであの二人を見てきた。おっちょこちょいで、あまり威厳のある先輩かというとそうではない。けど、正直、この中の誰よりも姉妹制度というものを愛している二人である。
 そんな二人が、何故廃止なんか言い出したのかは全然わからないが、恐らく一時の気の迷い程度だと乃梨子は考えていた。それなら、きっとすぐに我に返って過ちを正すだろう。そしたら、また皆で穏やかな生活を送ることができる。薔薇の館のみんな、勿論、瞳子や可南子さんも一緒にまたみんなで楽しい学園生活を営むことができる。
 きっと、瞳子も同じ考えなんだろう。と、そう思っていた。
 けど、そもそも乃梨子瞳子という人となりをあまり理解していなかったっぽい。
 彼女は祥子さまと一緒にいる為に、乃梨子志摩子の二人を平気な顔して弾劾裁判にかけたような輩だったのだ。
「私と祐巳さまや由乃さまがいれば、すぐにスール制なんてものはなくなりますわ。だから、あと少しの辛抱」
 はい? 
 ごめん。よくわかんなかったからもう一度。
「だから、廃止運動はしっかりばっちり成功するのですわ。この私が参加したからには敗北の文字はありえません」
 なんと言っても私は祥子お姉さまの親戚なのですから……。なんていやんいやんと首を振る瞳子の暴走は止まらない。何があったのか。何が彼女をこの領域に駆りたてたのか。訊かなければならないのだけれど、訊けない。
 だって、怖いから。
 とりあえず、瞳子はあんまし近づきたくない人になりつつあった。さっきからまわりの視線がちくちくイタイし。
「ええと、瞳子?」
「なんですの?」
 急に真顔になる瞳子に苦笑いを浮かべる乃梨子。そして、とりあえず、怖いからそれ止めてくれないと言いたい気持ちを押し殺して、彼女に訊ねた。
瞳子って肯定派じゃなかったっけ?」
「何の話ですの? 私は最初から否定派ですわ」
「……えーと、一応言っておくけど、祥子さまは肯定派だよ?」
「そんなの最初から存じてます。てか、寧ろ計算通りっ」
 そう言って、またトリップ。なんでも、今は互いに離れ離れになってしまってるけど、それは寧ろ二人の究極に煌いた愛が燃え上がって、邪魔者はさっさと排除、めくるめく愛の世界、だそうだ。瞳子わーるどでは、今頃チャペルが鳴り響いてる頃だろう。あ、涎出てる。
 そんなこんなで、なんか変な瞳子の様子に、乃梨子はどう扱っていいものかと非常に困った。
 誰か助けて。思わず、ポケットの中の仏像キーホルダーを撫でながら、そう思った時だった。
 本当に意外なところから助け舟は出されていた。
瞳子さん、不気味な醜態を演じないで下さいな。乃梨子さんが困られてます」
 可南子だった。やれやれとばかりにかぶりを振る。「それに先程の言葉、少々納得がいかないところがあるわ」
 天の助け。瞳子のあまりの変貌ぶりに混乱の極みに入っていた乃梨子
「可南子さん! 本当にいい時に――瞳子が何か前後不覚に」と、瞳をキラキラ輝かせながら言おうとした。瞳子を止めて! 親友――多分そうだとは思う――だと思っている人間がダメな道へ進もうとしているのを止めるのに猫の手すら借りたい状況だった。
瞳子さん、あなたの言っていることは間違ってるわ」
 そう言って、瞳子の頬を軽く叩く可南子の姿に、乃梨子は少し驚いた。
 ここリリアンでは、例えじゃれ合いのレベルと言ってもそう言った暴力的な行為は禁忌として認識されている。外部から来た、元々のリリアン生じゃない自分も随分と苦労したものだった。
 だからこそ、乃梨子は可南子のその行動に親近感を覚えた。そして、
 だが、乃梨子は忘れていた。借りようとしてたのが猫の手以下のシロモンだったということに。