【おりじなりゅ】彼女に再び逢う日には
1/
頭の中で何かが響いた。
こつんこつん。
頭蓋を足場にして、何処かの誰かが歩いている。
僕はそれを外の世界の音と勘違いした。いや、勘違いする必要もない。身体から鳴る音は鼓動と腹の虫くらいだ。それ以外で内から発せられるものなどない。
だから振り返って、けど誰もいないことに首を傾げ、何事もなかったかのように前へ進みながらも、この音が僕から離れることはなかった。
こつんこつん。
測ったように僕のステップを真似た誰かがそこにいる。
その音が聞こえる度に僕は何度となく足音のほうを見て、誰かがそこにいることを期待したが、やはりそこには誰もいなかった。
振り返った時に見た点滅する電灯はまるで集る羽虫を振り払っているかのように見えた。
/
飛び込んできたのは真っ赤な世界だった。ぐっと身体を起こし、目尻を擦る。
カーテンから差し込む朝日は舞った埃に反射して、光の筋を浮かび上がらせる。埃というものは汚いものとしての認識がある割に綺麗なものが多いと思う。雪とかもそうだ。
そこで僕はまず辺りを見回した。ここは何処だろう。そんな事を思う必要もないくらいここは見慣れた自分の部屋だった。昨日は疲れていたのだろう。ベッドの脇には脱ぎ散らかした服が転がっている。
欠伸をした。実は寝起きは悪い方だ。伸びをして、けど、押し寄せる睡魔を堪えきれずに布団をかけ直したところで気付いた。
時計を確認する。9時40分。顔から血の気が引いた。
/
僕には仲のいい友人が3人いる。その内の一人は大学に入ってから知り合ったが、他の二人は同郷で実に十年来の付き合いだった。
高校時代は同じように黒い髪を下ろし、服装も似たり寄ったりだった彼らだが、大学に入ると共に様相が変わってきた。
一人は色が黄金色になり、もう一人はやや茶暈けた髪を逆立たせている。
変わるものだ。と僕は思った。
そして、かくいう僕は昔のまま、黒い髪を真ん中で分けている。
/
肺が酸素を求めて激しく痙攣した。その本能に従って、僕は膝に手をついて大きく息を吸う。
日曜の駅は僕が思ったよりもずっと人が多かった。こちらの土地で一人暮しを始めてから、かれこれ2年間ほどの時が流れたが、生活圏が駅から離れている僕が駅を使うのは実家に帰る時くらいだった。それもなるべく人の少ない時間帯を狙っている。僕は人ごみが嫌いだった。
そうして、行き交う人を縫うように歩いたが、見知った姿はどこにもなかった。時間を確認しようと携帯を取り出すと、何本かの着信とメールが来ていた。履歴を見返すと彼らの名前が並んでいる。
園田 10:12 (無題)
『先にいっとくぜ。ついたら連絡くれ』
溜息が漏れる。どうせ間に合わないなら、もう少し遅れてくればよかったなんて一瞬でも思ってしまった自分に。
どうせ、問題を先送りにしているのにすぎないのに。少し遅れたくらいじゃ、日曜の駅の人ごみは減らない。
問題はなくならない。憂鬱は消えない。
ホームに下りても人は減る事はなかった。寧ろ、密集している分余計に不快感が募る。
僕は階段からやや離れたところに立ち、列車の到着をうんざりしながら待っていた。
列車が来ると人ごみは流れを作る。決壊したダムのように、そこに雪崩れこむ。
けれど、決壊したダムの水とは明らかに違う。流れこむ先は同じもので溢れきっている。しかし、流れは止まらない。風船に無理矢理空気を吹き込むみたいにただでさえ人の多い列車に押し進んでいく人、人、人。
比較的最初の方に入った僕は後からやってくる人の群れに、反対側のドアに押しつけられた。
そんな僕を僕は他人事のように眺めながら、惚けた瞳を向かいのホームに向けていた。
そこで、僕は彼女を見つけた。
名前は浮かばない。何処で会ったのか、それが誰かさえわからないが、それが彼女だということはわかった。
誰だったっけ。自身の二十数年間を反芻して、必死に彼女の名前を出そうとする。けど、すべてが空回る。確かに知っている。けど、思い出せない。
発進して、その姿が見えなくなっても、とり付かれたように僕は彼女の姿を追った。
しかし、追えば追うほど闇の中に潜っていく彼女に、やがて僕は息切れしてその場に座り込んだ。
もう一度覗いても当たり前のように彼女の姿はなかった。通過する駅の姿だけが車窓に虚しく映っていた。
/
「なあ、幽霊っていると思うか?」
「どうしたんだよ。いきなり」
「いや、昨日の事なんだけど、なんか後ろから足音が聞こえるんだよ」
「で、振り返ったら誰もいない、とかだろ。使い古されてるよ」
「バカ。冗談なんかじゃないんだって」
「OK。わかった。仮に聞こえたとしよう。だとしても、それがなんで幽霊に繋がるんだよ」
「いや、だって誰もいないし」
「どっかの野良猫って可能性もある。もしくは新手のストーカーだったりしてな。武、お前はどう思う?」
「そうだな。どっちにしても羨ましいよ」
「……バカにしてる?」
「いや、幽霊にせよ、猫にしろ、ストーカーにしても、どっちだってお前さんの熱狂的なファンがいるってことさ」
「あちゃ、確かにそりゃ羨ましい」
「他人事だと思ってるからだよ。僕の身になれば怖さがわかる」
「ははは、愛されるものは辛いねえ」
/
その夜、僕は彼女の夢を見た。
夕陽に染まった広い草原を僕は走っている。
彼女が誰なのかは結局わからない。
けど、この光景を、僕はずっと前から知っていた。
2/
唐突だが、実家の話をしようと思う。
僕の実家はとある田舎町の新興住宅地に居を構えていて、便なんかは悪くないが、少し歩いてみると昔ながらの旧家や一面の田園風景なんていうものも見ることができる。川で魚釣りもできるし、近くには山もある。
家にいるのは50に近づいた父と母、そして僕の三つ下の弟が一人。弟はこの近くにある高校に通っている。
僕の部屋は2階の表通りに面したところにあった。机と本棚と大き目の箪笥二つが6畳間に所狭しと置かれている。これで昔はベッドも置いてあったのだから、よく入ったものだと思う。
当時、僕はその部屋を狭いと思った事はなかった。それは決して、僕が広い事を望んでいなかった訳ではなく、元々がそういう認識だったからだ。だからこそ、実家に帰って、懐かしい部屋に足を踏み入れると、何もなくなった部屋が無駄に広く、そして寂しく感じるのだ。
/
アナウンスがぼやけた頭の中に響く。僕は俯けた顔を上げて、車窓に映った僕と鉢合わせた。
僕の顔越しの景色は僕に次の駅が終着であることを告げていた。うわっという後悔の言を口の形だけで留める。実家に帰る時、最も楽しみなのが途中に広がる大田園で、僕は地元ではなくそこでしか郷愁じみた感慨に耽ることができなかった。
不貞腐れるようにイヤホンを耳に通す。流れっぱなしだったビートルズのアルバムはリピートを繰り返し、ちょうど『Let
it be...』にさしかかったところだった。口ずさみたい気持ちを抑えて、リズムだけ取り始めると、それが終わる前に見慣れた懐かしいホームの前に列車は止まった。そこが終着。
イヤホンは挿しっぱなしにして、そのままウォークマンを鞄に放り込む。そして、僕は自動ドアの前に立ち、開くのを待った。
扉から漏れた故郷の匂いはやっぱり郷愁なんて欠片も感じなかった。
家に着く前にどうしてもやりたいことがあった。いや、やりたいというよりはやらなければならないという脅迫概念が自分の中にはあった。
大通りをそのまま通りすぎ、小さな公園を経て、小道に入る。公民館の脇を抜ける。小さい頃に通った近道は未だにその頃のまま残っていた。
そこを抜けると広い田園へと辿り着いた。今から十数年前までの僕は、このちっぽけな田園が世界の果てだと思っていた。
当時は見渡す限り黄金色の稲穂に包まれていた世界も、今見ればさほど大したものではない。広いとは思うが、その先に民家もあるし、さらに遠くの方にはそれなりの交通量を誇る車道も見える。
さて、どうしたものか。と僕はその場に座りこんだ。確かに間違いない。あの世界でもこんな風が吹いていた。
最果てに吹く風が、僕の頬を掠めるようにして流れていった。
/
「ここからあそこまでがぼくのじんちだからな」
「じゃあ、オレはここからここまでだ――って、言ってるそばから入るなよ、タケシ」
「知らないよ。ソノだってボクのとちに入ってるじゃないか」
「うるさい。先に言ったもん勝ちだろ」
「それよりさ、さっきからずっと――」
「ああ、そういえば――」
/
目が覚めると辺りが暗くなっていた。どうも眠ってしまっていたらしい。
視界に入った世界はどこまでもあの頃のままで、今にもあの頃の園田と武が笑いながらやってきそうだった。
ふふっという声が響く。何時の間にか僕は笑っていた。
得ることのできなかった郷愁をこんなところで受け取ることができるなんて思わなかった。まっくらな中で揺らめく稲のざわめきを聴きながら、僕は唐突に思ったことを口にした。
――随分とご無沙汰してました、世界の果て。
なんとなく、そう言いたかった。ただそれだけのこと。
けど、たったそれだけで僕はぼくとして、故郷に帰ってこれた。そんな気がした。
3/
その夜、久しぶりに家の布団で寝た僕は、先ほどの夢の続きを見た。どうも、果ての空気がまだ抜けきってないらしい。
僕たちは相変わらず、稲を刈った後の田んぼを走り回り、陣地取りをしていた。それが飽きるとどこからかボールを持ってきてそれを投げ合った。ボールを当てられたら鬼、という簡単な鬼ごっこだ。
「おいこら待てって。そんな近くから投げるのははんそくだろ」
「知るもんか。先にやったのはソノだろ。なあ、タケシ」
「そうだよ。せんりゃくだーとか言って」
「うん。さっきからすごくずるかったよ」
「て、待てよ。だから、おちつけってば」
「それっ。ソノが鬼だー」
そうして、日が暮れるまで遊んだ後、僕たちは揃って家に帰る。
今日のことを話し、明日のことを語る。
その日もそうだった。
「昨日、パパからカメラもらったんだ」
「え、ほんとに?」
「いいなぁ」
「ぼくのパパはさわらせてもくれないよ」
「だから、明日はみんなで写真とろうよ!」
「だれがカメラマンになるんだよ」
「そりゃオレに決まってるだろ。当たり前じゃん」
「ボクにもとらせてよ。お願いだから」
「しょうがないなぁ。じゃあ、少しだけ貸してあげる」
「え、ちょっとまてよ。ぼくは?」
「さっき思いきりボールぶつけたから貸してあげない」
「なんだよそれー。そういうルールなんだから仕方ないだろ」
「あははは。許さないもんねー」
/
その写真は、今も僕の机の上でひっそりと佇んでいる。
色褪せて、僅かに埃が被った、しかしそれでもなお輝き続ける大切な思い出。
4/
山登りは久しぶりだった。少しばかり息を弾ませながらも、小さな山の頂上にあるちょっとした公園を目指す。
子供の頃、そこはまさに御伽の国だった。公園には整備した時にできた木材で作られたアスレチックと長い長い滑り台があって、僕たちはたまにここを訪れると目を輝かせて走り回った。
とは言ってもやることは結局鬼ごっこ。僅かばかり立体的になるだけだが、それでも楽しいことには変わりない。
何せここに来るのはそれなりに大変だったのだ。子供の足ではこのハイキングコースのような山登りも大変であるし、何より通り道にはお墓や彼岸花もある。まさにホラー映画のような趣がここにはあるのだ。
登りつくと僕はベンチに座って、一時の休息を取った。見上げれば屋根には『南野洋子命』の文字。きっとここは僕たちも、それ以前の人たちの休息も見守っていたのだろう。古惚けたベンチがやれやれと溜息を吐き、僕はそんな彼を労い、「ご苦労様」と撫でた。
さて、そこでふと考える。僕は何故こんなところに来たのだろう、と。
昔の思い出に耽たかったのかもしれない。一番無難な答えを反芻してみたけれど、その問いはもやのように覆って離れなかった。
ベンチの上に寝転がってみる。そのまま顔を横に向けると、一本の大きな百日紅の木が見えた。
/
「これの名前、知ってる?」
「知らないよ」
「さるすべりって言うんだって。すべってサルも登れないみたい」
「よっし、じゃあ、オレが登ってやるぜ」
「止めときなよ。さわってみたけどホントにつるつるするよ」
「うるさい。よし、そこまで言うなら見てろよタケシ。オレがちょっと登ってみるから」
「降りられなくなっても知らないよー」
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結局、園田は降りられなかった。それで助けに行こうとして僕と武も登った。
その後が大変だった。僕たちは結局全員が降りれなくなって、木の上でわんわん泣いた。思えば、あの時が初めて感じた死の足音だったのかもしれない。
結局、たまたま通りがかったおじさんに助けてもらって、僕らは助かった。その時も確かに撮った筈だ。
/
「おりられなかった記念!?」
「そう。みんなで写真」
「ふざけんじゃねえぞ。なんでそんなカッコワルイ写真とらなきゃいけないんだよ」
「あのー、お願いできますかー?」
「て、話きけよっ」
「ははは。面白いじゃないか。どれ、おじさんが撮ってあげよう」
「ありがとうございまーす」
「いや、まて。おっちゃん、そんなんとらなくてもいいからっ」
「そうだよ、はずかしいじゃないか」
「きにしないきにしない」
「じゃあ、行くよ。はいチーズ」
カシャ。
「うっわ。ほんきでとりやがったー」
「うううう……」
「まあ、いいじゃない。せっかくの記念だし」
「たしかに記念といえば記念なんだけど……」
/
家に飛んで帰った僕は、必死に昔のアルバムを漁った。あの百日紅の木を見て、すべてのピースが揃った。カチリとぴったりはまったそれは、僕の頭の引き出しの鍵を開き、その中の思い出を取り去ってくれた。
そもそもが最初からおかしかった。あの写真、僕と園田と武が肩を組んでいる写真は誰かに撮ってもらったものだ。人気のないあの辺りでは、知らない人を探すのは困難であるし、何より小さかった僕たちがそんなことを誰か知らない人に頼むということが不可能だ。
もう一人、いた。
その場所に。僕と園田と武と――あと一人、よく遊んでいた子がいたんだ。
「……あった」
古惚けたアルバムを片っ端から捲っていく。
僕たちは最初は三人だった。けどある日、そう、あの陣地取りをした日に僕たちは四人になった。
遠くから僕たちを見つめていた一人の少女。最初にそれに気付いたのは武で、声をかけたのは園田。
――いっしょにあそぼうよ。
差し出された手を見て、あの子は怯えたように後ずさって消えた。けど次の日も、そのまた次の日もあの子はそこにいた。そして、僕たちは腐らずに繰り返して誘った。
あの子が仲間になったのは僕が声をかけた時だ。恐る恐る僕の手を取って、あの子はぎこちなく笑った。
「やっぱり、あった――」
百日紅の木。僕たちが降りられなくなった記念。
不貞腐れた顔をした僕たちの中で。
たった一人、彼女だけが向けられたカメラに笑いかけていた。
/
『記念のサルスベリの木。
――ぼくとソノとタケシとマユミ』
5/
「それじゃ、とるよー」
「オレはかっこよくとれよな。つか、次、ぜったいかせよな、マユミ」
「あ、ボクもかしてね、マユミ」
「うーん、けど、パパにもらったものだから、ちゃんと返してね」
「えーと、その……ぼくも……」
「ダメ。ボールいたかったもん。それじゃ、ハイチーズ」
カシャ。
……。
/
思い出してみれば何でもない話だった。
短い間だったが、僕たちとマユミは仲間だった。季節が回って彼女があっという間に引越ししてしまって、僕たちがそれを忘れてしまうまで。
机の引出しを開けると、その奥には彼女から貰った手紙がひっそりと眠っていた。中には元気でやっているという旨が書かれた手紙と一枚の写真。当時の僕は彼女が見知らぬ奴らと楽しげに写っていることが酷く不満だった。彼女は僕たちの仲間なのに取られてしまったように錯覚したのだ。裏切られたなんて思ったりもした。
だから、その写真が送られてから僕たちは彼女を懸命に忘れようとした。裏切り者なんか知らない。そう言って、僕たちは彼女から離れた。それでも百日紅の木の写真が残っていたのは、いつか僕たちの元に彼女が帰ってきた時に、これを飾ろうと思っていたからだ。机の上の写真と入れ替えて。
封筒を裏返すと、当然のように書かれているものがあった。下宿先から近い。それはそうだろう。ホームで見かけたのが彼女なら、彼女は近くに住んでいて当然なのだ。
あまりにも偶然。僕たちは離れながらも近くにいたのだ。
何しようかなんて考えなかった。
その手紙を鞄の中に詰め、僕は短い帰郷を終える。
ただ、彼女に会ってみたかった。
裏切り者の僕は彼女に謝って、この写真を飾りたかった。
百日紅の木の写真を。
/
彼女の家は郊外に住んでいる僕や武よりもさらに離れたところにあった。
閑静な住宅地。恐らくそれなりの身分の人間がここに集まっているのだろう。都市近郊にしては建物自体が大きかったし、停まっている車もそれぞれが名の知れた高級車が揃っていた。
彼女の家もそんな例に漏れず、立派な佇まいをしている。チャイム鳴らそうと指を差し出して、その指は直前で何度も止まった。
何にせよ反則だった。いきなり出鼻を挫かれたような錯覚を覚える。そう言えば、貰ったというカメラも子供が持つようなものにしては高そうだった。マユミはいいとこのお嬢様だったのだ。
そんなことを一人悶々と考えていたから、僕は危うくその声を聞き逃すところだった。
妙齢のご婦人といったところだろうか。そのような人物が僕の後ろで不思議そうな顔をしていた。
「うちに何かご用でしょうか?」
「すみません。僕はマユミさんの昔の友人なんですが、マユミさんはご在宅でしょうか?」
怪しいのはわかっている。だから、それなりに言葉を選んだつもりだった。
しかし、それでもなお、僕はこの場所からは離れていたのだろう。母親と思わしきその女性の表情は明らかに訝しげに曇っていた。
通された先は居間と思わしき部屋だった。皮張りのソファーに座ると居心地の悪さが二乗して僕に大きく圧し掛かってくる。
目の前に紅茶の入ったカップが置かれ、木の装飾が施されたテーブルを挟んだ対象に婦人は座った。何故か義務教育時代の家庭訪問が思い起こされる。気を落ち着けようと口をつけた紅茶が、ごくりと音を鳴らして喉を通りすぎていった。
「あ、あの……」
気まずい雰囲気に堪え切れず、僕は小さく切り出した。それでも空気は変わらない。婦人は紅茶を受け皿ごと膝の上に持っていったまま、惚けた様にこちらの顔を見つめている。
気まずさの上に気恥ずかしさまで加わって、僕は少しだけ顔を赤らめて俯き、再びカップを手に取った。
「ああ、失礼。貴方の顔を見て、少し昔のことを思い出してしまいました」
こほんと咳払いして。さて、いよいよ家庭訪問じみてきた。いや、寧ろ彼女の両親に挨拶に行く時に近い気もする。今、自分に出来ることはこの時間が早く終わってくれることを願うだけだ。
だからこそその終わりを、彼女が――マユミがひょっこり顔を覗かせてくれることを期待して待っていた。
だが、その終わりは永遠に来ない。それを僕は次の瞬間思い知らされた。
「真由美の昔のお友達、でしたよね。ごめんなさい。あの子は、もうずっと前に亡くなっているの」
/
あれはいつの話だっただろうか。ただ、百日紅の記念の日ではない。僕たちはあの山の公園に行って、確かカブトムシを獲りに行っていた。
「テレビでみたんだ。こうやって蜜塗るとカブトムシが来るんだぜ」
前日のソノのその言葉に僕たちは目を輝かせた。カブトムシって言ったら、その頃の僕たちにとっては宝物以外の何でもなかった。
蜜を塗って、じっと待って――その途中で僕たちは用意してもらっていたお弁当を食べた。
その場所で、僕は見慣れないものを見たんだ。
「それ、なに?」
「え? うん。お薬。お医者さんがね、ご飯食べた後はこれ飲まないとダメだって」
「うそ、すごい苦いんだろ、それ」
「うん、苦いよ」
「すごいな、ぼくだったら絶対飲まないよ。ぼくね、風邪ひいた時に薬飲むフリして後で吐いたんだ。けどちゃんと治ったぜ」
「うん、けど、私はこれ飲まないとダメだから」
「飲まないとどうなるの?」
すると彼女はにっこり笑って。
「死んじゃうんだって」
そう言って、苦そうな薬をごくりと飲んだ。
結局、カブトムシは獲れなかった。報酬はこの思い出と身体中に残る痒みのみ。
そんな、とある夏の日の思い出。
/
「あの子は昔から重い病を患ってたんです」
テーブルに置いた紅茶がからんと音を立て、薄茶色の水面に静かな波紋が広がる。
切々と独白する彼女の言葉に僕はただ耳を傾けた。最初は信じられなかった。僕はあれから十年以上経った今もこうして何事もなかったかのようにここにいる。なのに、彼女はもうこの場にはいない。そんな馬鹿げた話を僕は認められなかった。
「あの子は言ってました。みんな覚えていてくれるからって。この写真を見て、笑ってました。みんなの中で生きてるからって。生きるってことはそう言うことだって」
その言葉が僕の心に突き刺さる。僕は彼女のことを憶えていなかった。マユミは僕たちのことを信じてくれていたのに、僕たちはそれを裏切ったのだ。僕たちが彼女を殺したのだ。
仲間を裏切ったのは僕たちの方だったんだ。
「だから、今日は貴方にこうして来て頂けてよかった――」
俯いた顔からは涙が流れていた。それを無理矢理上げてマユミのお母さんは必死で笑う。
「あの子はまだ、今もきっと生きてるんですよね?」
6/
答えは見えない。僕は今、あの時のように混雑した駅のホームに立っていて、呆然と向かいのホームに視線を向けている。
あの後で僕は訊ねてきた婦人にこう答えた。「今日、僕がここに来たのは少し前に彼女に会ったからです」
すると、彼女は少しだけ驚いたような表情をして言った。「よかった。やっぱり生きていてくれた」そう言って今度こそ心から微笑んだ。
あの時会った彼女が何なのかは僕にはわからない。死んでしまった彼女の幽霊なのかもしれないが、僕はそう思いたくはなかった。
答えは永遠に闇の中を潜り続ける。けど、僕はそれを追う事はない。決して追いつかないように、けど、離れないようにその後を歩き続けるだけだ。
/
「なあ、死んだ後ってどうなると思う?」
「おいおい、最近変だぞ。またあのストーカーに追われてるのか?」
「いや、それとは別だよ。単純に死んだらどうなるのかなって」
「うーん。そうだなぁ。武、お前はどう思う?」
「とりあえずは骨になるな」
「いや、そう言う問題じゃなくて――なんていうか、精神論みたいな」
「ああ、そっちか。なら、天国か地獄か――って俺んちは浄土真宗だから極楽浄土か地獄だな」
「それだな。あと、さしあたっていくところがある」
「三途の川?」
「当たり」
/
それは後日談になるが、僕と園田と武はまた三人で会ってそんな話をした。
あと一つ、訊ねたことがある。それは寧ろ、今回の本題。
「なあ、マユミって子、憶えてる?」
二人は揃って首を傾げ、
「誰それ?」
今、彼女を繋ぎ止めているのは僕だけだ。
/
停まった電車にはまるで亡者のように人々が雪崩れこんでいった。僕はまたあの日のように車窓に顔を押し付けられて、けど、そんな自分を他人のように扱って、反対側のホームに顔を向けている。
向こう側に彼女はいなかった。必死で一人一人の顔を確認する。似た人すらいない。
それで僕は唐突に理解した。彼女は今はきっと世界の果てにいるんだろう。端の方に座り込んで、僕たちが声をかけるのを待っている。そしたら、僕のやることは決まっている。机の上に置いてある百日紅の木の記念写真とボールを抱えて、彼女に再び会いに行こう。
真っ白な服を着た彼女はそこであの頃のように笑っている。僕はそんな彼女にボールを投げる。それで記念写真を撮ってもらうんだ。
もう、足音は聞こえない。
彼女は今もずっと生きているのだから。
黄金色の稲穂を踏み分けて、僕は走る。
了