こちら美坂栞、なんとか元気です。



 死の瞬間というのは、案外寝る前のぼんやりと薄暗い豆電球を眺めている感覚に近いのかもしれない。
 機械音が定期的に室内に木霊した。それに合わせるように、忙しなく動き回る人々の音。そして、今まであまり意識していなかったけれど、確かに自分の心臓が動いている。その音が聞こえる。
 しかし、彼女はそれらに対して煩わしさしか感じなかった。身体はひどいだるさを訴えていたし、出来るならば早く眠らせて欲しい。静かにして欲しい。寝惚けた頭でひたすらそう思い、この騒ぎが収まるのをじっと待った。声を荒げて、一言「静かにして」というのも億劫だった。
 どうやら近くに時計はないらしい。コチコチと時を刻む音はいくら耳を澄ませても聞こえてくることはなかった。だから、代わりに絶えず流れる電子音を時計代わりに時間を数える。いち、に、さん。60数えたらカウントを戻していち、に、さん。
 どこか、羊を数える行為に似ていた。寝る前に羊を数えることを最初に教えてくれたのは彼女の姉。きっとそしたらぐっすり寝られて、明日はいっぱい遊べるわよって。まだ電灯の紐に届かなかった頃、ベッドに入って一人で寝ることがたまらなく怖かった頃。
 そして、まだ奇跡を信じていた頃の話だ。彼女も彼女の姉も。
 喧騒が鳴り止んだ。ちょうど5回カウントを戻した時だった。機械音と鼓動以外のすべての音が遠ざかっていく。
 光が広がっていた。ゆっくりと心臓が鳴動するたびに少しずつ視界が開けていく。世界が塗り変わり、枷が外れ、彼女は解き放たれる。
 あれ? 彼女は首を傾げた。
 そこは病室だった。随分長くいたせいだろうか。病院にいくつ同じような病室があるのかはわからないが、そこが確かに自分の見慣れた部屋であることがはっきりとわかった。先ほどから絶え間なく機械音を発しているものには、まるで波のような文様が走っている。以前、テレビで見た記憶があった。現実で見たのも、初めてではなかった。
 見たことがあるもの。見慣れていた病室。そして、世界。だが、今彼女が感じているものはすべてが経験していたそれとは異なっていた。まるで鏡の国に迷い込んだような錯覚を覚える。たくさんの人がいるけれど、誰も自分の姿を気にもとめない。皆が皆口を動かしているけれども、彼女の耳には届かない。
 無音の世界。その中で唯一聞こえてくる機械音。発している機械からは幾つもの細い管が一人の少女へと繋がっている。横にある点滴も、まわりに集まっている人の視線も、すべてが同じところに集約していた。ベッドの上で静かに眠る、自分とまったく同じ顔の少女へと。
 ああ、そうか。と納得してしまった。辺りを見回して、気付いてしまった。
 ベッドの上で眠る自分。その上で、漂うように浮いているのが今の自分。なにもおかしいことはなかった。
 つまるところ、自分は――美坂栞は16年に渡った人生にピリオドを打ってしまったようだ。自分の、恐らく亡骸であるもう一人の自分の姿を呆然と見つめながら、彼女は慌てたように胸を押さえる。
 とくん、と心音が聞こえた。オーケイ。どうやら、まだ死んではいないらしい。驚いた割に欠片も高ぶらない鼓動を感じながら、彼女は少しだけ安堵した。
 さて、これからどうしようか。病室内の喧騒は先程からとんと遠のいてしまっていたが、それでも人の姿は耐えなかった。何度も何度も自分の検診をした医師の姿もある。病院が嫌で抜け出した時、思わず泣き出してしまうくらいに激しく怒った看護婦さんの姿もあった。その人にバレないようにしなさいよ、とペロリと舌を出して、悪戯っぽく笑った同僚の看護婦さんも。皆が皆、重い表情で佇んでいる。
 開いたドアからまた人が入ってきた。見間違うはずなんかない。自分の父親と母親。そして、お父さんに手を引かれるように入ってきたのは。


 ――お姉ちゃん。


 妹なんていない。そう告げて、けれど、そうなりきれなかった優しい姉は入った途端にもう一人の自分に取り縋って泣いていた。ずっと美人だと妹として密かに自慢だった姉の綺麗な顔がぐちゃぐちゃに崩れてしまっている。大きくて、強く見えた姉の姿が、今はとても儚く、小さく見えた。
 滅多なことでは表情を変えないお父さんの顔にも、ゆっくりと涙が伝っていくのがわかる。お母さんのはわからなかった。入ってすぐにお父さんの胸に隠れてしまったから。
 そんなに泣かなくても、大丈夫だよ。
 自分はまだ生きている。意識は離れてしまっているけれど、すぐ傍にいるのだ。昔、どこかのドラマで見た事がある。身体さえ重ねてしまえばすぐに元に戻るんじゃないかって。そんな希望がどこかにあった。
 だから、栞はゆっくりと自分の抜け殻に近づいた。元に戻って、目を開いて、大丈夫だよって微笑みかけたかった。
 けれど、そう思ったときだった。ぐっと自分を引っ張る力を感じた。必死に戻ろうとしてるのに、その力はそれを許してはくれない。引き摺るように、自分をもう一人の自分から引き離していく。何が起こっているのか。背後が少し気になったけれど、振り返ることはしなかった。何かきっと恐ろしいものに違いない。そんな予感がしていた。
 必死になって手を振る。足を動かす。ジタバタと必死で足掻いて、けど、なかなか近づくことはできなかった。それどころか、ゆっくりと自分から離されていく。
 まけるもんか。泳ぐように空気を掻いて、足をバタつかせる。あとほんの少しなのだ。がんばれ。がんばれ。言い聞かせて、必死に何かに抗った。けれど、それでも離れていくことに変わりはない。自分の後ろからは物凄い重圧。けれど、振り返らない。振り返ると、きっと自分は折れてしまう。もう、戻れなくなってしまう。
 ばかばか。きえてしまえーっ。
 叫んだ。部屋にいる誰にもその声は届かなかったけれど、後ろにいる何かには届いたらしい。少しだけ力が弱まったように感じた。今だ。がむしゃらに手を動かして、栞はベッドで眠る栞の中に飛び込んだ。
 途端に身体が重くなった。
 目を開こうとして、ゆっくりと口を動かそうとして、でもダメだった。大丈夫だよなんて言えるはずがない。まるで鉛のような自分の身体を前にして、それでも栞は絶望しなかった。
 口をこじ開ける。重い瞼を必死に開いた。薄くしか開いてない瞼の向こうでお姉ちゃんが泣いていた。
「……しおり?」
 泣き声で。けど、確かに自分の名前を呟いた。
 だから、栞は笑った。自分に残された力の全てを使って、震える唇を必死に緩めて。


 ――だいじょうぶだよ。


 声はもう出なかった。身体のどこも動かなかった。
 音も聞こえなかった。けれど、満足だった。きっと想いは伝わったと思う。何かに引き摺られて、ふわりと魂が身体から離れるのを感じたけれど、抵抗なんかしなかった。ゆっくりと意識も落ちていく。
 栞が満足するのを待っていてくれたのだろうか。先程からずっと自分を引っ張っていた死界からの使者は思ったよりも暖かい。もしかしたら、優しい人なのかもしれないな。意識が落ちる前、この世にいる中で、栞が最後に思ったのはそんな他愛もないことだった。


    ***


 暗転した世界の果てで、少女は夢を見ていた。
 そこは上も下もなく、右も左も前も後ろも何もかもがまるで黒色の絵の具で塗り潰されたように黒かった。
 ただ、そんな世界にあって自分の周りにだけは床があった。自分は確かにそこに座っていて、周りにはたった一つだけ映写機が佇んでいる。
 一人ぼっちの世界。だけど、不思議と何も恐れることなんかなかった。それどころか、この空間はひどく心地いい。自分は確かにここに存在している。それ以外に何もないからこそ、ただそれだけを感じることができる。
 そして、しばらくぼぅっと何もない空間に視線を走らせていた後、心臓が何回鳴ったのか、数えられなくなった時、光が飛び込んできた。③、②、①と何もない空間に文字が浮かぶ。まるで映画を見ている気分だった。
 準備はいい? 誰かが闇の中で問う。振り返っても誰もいないことはわかっていた。
 だから、少女は答えた。ただ、前だけを見つめて。
 じゅんび、おーけーだよっ。


 そう、これは運命に反旗を翻した二人の少女の物語。














 ――開幕。


 気がつくと彼女は森の中にいた。
 覆い茂る草の絨毯の上で、大きく伸びをして目を擦る。どれくらい寝ていたのかわからない。寝惚けた頭で天を仰いだけれど、目に映るのは深い深い木々の緑のみ。そこから漏れてくるのはぼんやりと周りが窺える程度の光しかなく、それが日光によるものなのか、または月光によるものなのかはわからなかった。
 まあ、どっちでもいいけど。
 なんとなく投げやりに、栞は思った。次第に冴えてくる頭が、彼女に一つの真実を告げている。今、自分が森の中にいる。そんな状況はありえない。きっとこれは夢なのだ。そうに違いない。
 だから、自分の頬を思いっきり抓ってみて、それが只管痛かった時の彼女の反応は、筆舌に尽くし難いものであった。惚けて、「へ?」と確認するようにもう一度頬に手をやる。痛い。また惚ける。繰り返し。
 頭の中がぐるぐると回っていた。自分の中に二人の自分が現れて、一人は「これは痛くて、ありえないくらいリアルですが絶対夢なんです。もう一度寝直しましょう」と彼女を誘った。自分も賛成だった。けれど、もう一人の自分が残酷にも告げる。
 これは現実だ、と。
 認めたくない事実を受け止めることに彼女は慣れていた。全てを投げて、現実逃避することの方がよっぽど怖いことも彼女は知っていた。
 だからこそ、叫んだ。例え、慣れていたとしてもそれが受け入れ難い事実であることには変わりないから。こうして、戸惑っている自分がいることこそが、紛れもない真実の姿であったから。
 大きく息を吸って。はい。
「ななななななんですか、ここはーーーーーーーーーっっっ!!?? 森ですか!! なんでですか!? 意味、意味わかりません!! これじゃまるで、まるで……」
 ドラマみたいじゃないですか――。
 その言葉を栞は必死に飲み込んだ。
 慣れてきたとはいえ、周りの景色は相変わらず暗い。湿っぽい空気が辺りを満たし、木々の間から漏れてくる風がささやかな音楽を奏でている。
 梟が鳴いていた。ホゥホゥと。栞はそこでゆっくりと息を吐いた。
「やっぱり気のせいですよね――」
 何かが近くで自分を見ているような気がした。けれど、それは単に自分の過剰な自意識がもたらした錯覚であったようだ。胸に手をあてて、激しく鼓動する心臓が落ち着くのをじっと待った。その間、何もすることがなかったので、自分の頭を切り替えることに全力を尽くした。
 状況整理は大体のところ、できている。意味も訳もわからないが、どういうことか病院で寝ていたはずの自分は今、森の中にいて、あれだけ自分を苦しめていた身体の不調は殆ど消え去ってしまっている。一度その場で跳ねてみた。身体は、驚くほど軽く、それが少し嬉しくて、何度も何度も跳ねた。
 うん。と大きく頷いた。
 夢か現実かもわからない。何が起こってるのかはさっぱり理解できていない。
 けれど、立ち止まっていても意味なんかない。
 折角だから、歩こう。こんなにも気分がいいのは久しぶりだ。
 そして、このことを皆に伝えよう。自分がこんな大冒険をしてきたんだって。珍しく目を丸くして聞いている姉の姿を想像して、栞はクスクスと笑った。
 水溜りを飛び越えて、大きな木の根の上でステップを踏む。
 美坂栞の大冒険は、ここから始まるのです、なんて。
 そんなモノローグを自分で呟いて、ウキウキと弾む足を前へ向けて、ノッポの草を両手でゆっくりと掻き分けた。
 変なものと目があった。
 毛は生えてないと思う。両足でしっかり立ってはいたけど、それは決して人でも猿でもなかった。何よりこんなに大きくて、人みたいな生き物は見たことない。黒っぽい尖った顔にあるギョロっとした目には自分が映っていて、少しだけ尖がった大きな口からは鋭い牙と、粘々した液体がだらりと垂れている。
 まるで怪獣だ。と栞は思った。
 ペチャっと唾液が頬にかかった。そこで栞はようやく我に返る。
 ああ、本当に大冒険が始まってしまったんだ、と。
 悲鳴をあげて、必死で来た道を走り出す。そうしなければならないと思った。
 そして、そうなるのにさして時間はかからなかった。


    ***


 こんなにも長い距離を走れるんだ、と栞は自分の身体の状態のよさを噛み締めていた。
 息は切れているけれど、まだまだ足は動く。学校までの短い距離でさえ、走り抜けることなんかできなかったあの頃が嘘のようだった。
 何より冷たくて湿った森の空気はひどく心地がいい。走ることが楽しいなんて、生まれて初めて思った。嗚呼、生きてるって素晴らしい。素晴らしき哉、私の健康二重丸な身体。両手を広げて、大きな声で笑い出したいくらいだった。
 後ろに変な生き物が迫っていなかったら、の話ではあるが。
「いやぁあああああああああっっ!! 来ないでぇええええええっ!!」
 叫んで、それでも必死になって足を動かす。背の低い草を飛び越える。かすり傷だらけの足を、それでも疾く。疾く。
「私なんか食べてもおいしくないです! それに、私に何かあったらお姉ちゃんが怒りますよ! 怖いんですよ!」
 栞は姉が怒った時とかたまにボクシングのシャドーっぽいことをしていることを知っていた。その犠牲者の大半が同じクラスの男の子であることも。机の中には実は血濡れのカイザーナックルだとか、釘バットとかがこっそり入っているに違いない。これは栞の想像である。
 とにかく、怖いんです! と、要するにそれが言いたかったわけである。そんなこと言って意味があるなんて思わなかったが、世の中何が役に立つのかわからないのである。
 けれど、予想に反して、それには何故か本当に効果があった。
 あれ? と振り返ってみる。思った通り、怪物と自分との距離は先程よりもずっと開いていた。決して自分が速く走ったからではない。怪物の方が遅くなったのだ。
「そうです。怖いんですよホントですよ。お姉ちゃんのパンチはなんだってやっつけちゃうんです」
 後ろを振り返って、少し得意げに栞は人差し指を立てた。どうやら、我が姉の恐ろしさはこんな辺鄙な森の中にまで轟いているらしい。
 あとでお姉ちゃんにお礼を言わなきゃ、と少し。ただ、そんなこと言うと怒られるのがわかっているから、こっそりと言おう。ありがとうを。
「だから、私にイジワルなんかしちゃダメなんです。あなたがいくら大きくったって、お姉ちゃんなら一発ですよ。だから、大人しく私を追いかけるのをやめ……」
 ビュン――と風が唸った。
 でっかい石が栞のすぐ横を飛んでいった。
 ツー、と栞の頬から血が流れる。
 笑顔のまま固まった栞は、ゆっくりと怪物の様子を眺めた。
 ごそごそと何かしている。と思ったら、野球のピッチャーみたいに大きく振りかぶった。手には勿論、先程よりも大きな石。
 姉への感謝の気持ちは、思い切り彼方へと押しやる事にした。
「ひぃいいいいいいいいいいいいいっ。お姉ちゃんのばかぁああああああああっっ!!」
 飛んでくる石を器用に避けながら、必死で走った。足が草で切れて、痛みを感じたけれど、そんなことは関係ない。
 すぐそこまで、追いかけてきているのがわかった。ある程度距離を詰めると、途端に自分の頭より大きな石を放ってくる。気配を感じなくなったからと言って安心することなんかできなかった。何より、この怪物は、自分を逃がすつもりなんて毛頭にないのだ。
 森の中を必死で駆け抜けた。何時間も走っていたような気さえする。けれど、木々が途絶えることはなく、森は永遠に続いていた。気が滅入る。せめて、此処から抜け出せれば、誰か人がいるかもしれないのに。
 助けてもらえるかもしれないのに。
 余計なことを考えてしまったからだろうか。
「あっ!?」
 足元に太い木の根が張り巡らされていることなんかに気付いていなかった。
 為す術もなく栞は転んで、そして立ち上がれなかった。
 破裂してしまうんじゃないかってくらい、心臓は激しく鼓動している。
 空気を求めて肺が喘ぐ。ずっと訴えていた痛みが思い出したかのように激しく疼き出す。
 心が折れてしまいそうだった。もう十分頑張った。だからおやすみ。ダメな自分がそう言っていた。
 だからかもしれない。一番大切な人の姿が思い浮かんだのは。
 脳裏には祐一が笑っていた。諦めるな。がんばれ、って励ましてくれているのがわかった。
 力の入らない両腕に渇を入れて、ゆっくりと身体を起こす。
 負けるもんか。そう思った。諦めちゃいけないんだって、祐一はずっと教えてくれていた。
 だから、背後で音がした時、どうしようもないってわかっていながらも必死で身体を転がした。地面に深々と刺さっている大きな腕を見て、顔から血の気が引いていく。
 必死に後ずさったけれど、もうどうしようもなかった。後ろに下がる手に何かがコツンとぶつかった。
 背後には大きな木があった。必死に走った結果が追い詰められてしまっただけだったことに栞は愕然とした。
 スローモーションのように情景が映った。目の前の怪物が、ゆっくりと地面から手を引き抜いた。ギロリと大きな目が、彼女を睨む。
 栞はゴクリと唾を飲み込んだ。ゆっくりと息を吐いて目を閉じた。
 そして、謝った。ごめんなさい。お姉ちゃん、祐一さん。
 目を開け、今にも腕を振り下ろそうとしている怪物を睨んだ。さよなら――頭の中に、確かにその言葉が浮かんだ。
 胸に手を。服越しに確かな感触がある。祈る。イメージを浸透させ、現象として具現化。事象発現へのプロセスを構築。透化した言葉が脳内を走る。薄ぼんやりとした思考ではあるが、何かが弾ける様に駆け巡っていた。
 コンマ一秒の内にすべてが終わった。あとは起動するのみ。それが何を意味するのかさっぱりわからないけれど、確かに彼女は知っていた。これから起こる事も、すべてわかっていた。
 だからこそ、思った。さよなら。目の前の存在に。さよなら、怪物さん――。
「伏せなさい!」
 森の中に凛とした声が響いた。はっと我に返って、栞は必死に身を伏せる。
 煌いたのは銀閃。大きな塊が怪物を侵食していく。食い込んでいく。
 悲鳴が轟いた。ぼとっと目の前に何かが落ちてきた。
 怪物の、さっきまで付いていた筈の腕だった。
 息を呑む。再び銀閃が走った時にはすべてが終わっていた。どす黒い液体を撒き散らしながら、怪物はゆっくりと倒れていった。
 気が遠くなる。何かに意識が呑まれていくのを感じる。
 空からゆっくりと舞い降りた人には純白の羽が生えていた。血塗られた、自分と同じくらい大きな剣を片手に携えて、ゆっくりと自分を見つめてくる。
 返り血に濡れたその姿は、残酷だったけれど、凄く綺麗だと思った。
 天使に助けられるなんて、まるでドラマみたい。
 最後に、そんなことを思いながら、栞は意識を失った。


    ***


 遅かったか。青年は土に還る妖魔を見下ろしながら、静かにそう呟いた。
 すべては自分の失態だった。確かに慣れない仕事だったということもある。そも妖魔退治が任務のはずの自分がするべき仕事ではなかったとも思う。そう言った事は元々専門家に任せるべきなのである。だが、引き受けたのも、彼女を連れてきたのも自分だった。だからこそ、苛まれる。
 それを引き受けたのも、彼女の手を離してしまったことも。
 バサリ、と羽ばたく音が聞こえた。振り返らず、ただ瞼を下ろす。
「報告します。ターゲットの姿は何処にもありませんでした」
「わかっているよ。これは恐らくアイツの仕業だろう。だったら、ターゲットの居場所はあそこだ」
 顔を向けた。この広大な森の向こう。その先へと視線を送る。後ろの男もその言葉にゆっくりと頷いた。
「失態、ですね。隊長らしくもない――」
「言うなよ。元々死神の真似事なんて俺には合わないさ。そもそも、その為の八番隊だろう?」
 男は苦笑するように息を漏らした。「忙しいらしいですよ。八番隊も」
 青年は笑った。「景気がいいね」 そして、静かに羽を広げた。
「ターゲットはどうされるおつもりですか?」 飛び立つ前に、男は聞いた。
「しばらくはアイツに預けておくよ。その内接触してみる」
 彼女に罪はないからね。静寂な森に青年の声が薄く消えていった。
 残された躯は、静かに土に返っていく。青年はその様子を最後まで見届けると、空へと飛び立っていった。


    ***


 安らかな朝が来たと思った。
 小鳥の囀りと、優しい朝の光が夢の中からゆっくりと連れ出してくれる。
 長い夢だったと思う。それ以上に、ひどい夢だったとも思う。
 だからこそ、最初に姉に話すことは決まっていた。絶対にこの夢の話をする。はいはいっていなされてもきかない。自分の気が済むまで、延々とこのすごい夢の話をするんだ。そう思っていた。
 だから、最初に目を開いた時、目の前にいたのが無精髭を生やしたおじさんで、そのむっつりとした顔を見て思いっきり悲鳴を上げてしまったのも仕方がなかったと思う。
 仕方なかったのだ。
 けど、悲鳴を上げられた方はたまったものじゃなかったようで。
「あのなあ……」
 そう言って、そのおじさんはしかめっ面のまま無精髭を撫でた。どうやら外人さんらしく、髪も髭の色も薄い茶色で整っている。
「折角助けた上、怪我してたっぽいから治療までしてやって、さらには様子まで見に来てやってるこの俺に感謝もせずいきなり叫ぶとはいい度胸だなテメエ。覚悟はできてるか、ァア!?」
 血管を額に浮き出して、中指を立てる。けれど、何故かそんな怖い仕草をしても、彼には愛嬌があった。怖いんだけれど、かわいくて、思わず笑いが込み上げてくる。
 だから、彼は必死で笑いをこらえる栞を見て、バツの悪そうに頭をかく。そして、いつしか一緒になって笑っていた。
 どうやら、基本的にこの人は笑うのが好きな人らしい。だから、しばらく笑って、栞の込み上げてくる笑いが収まった時にも、この人はずっと笑っていた。じっとその様子を眺めていると、視線に気付いたのだろうか、コホンと咳払いを一つ。
「ま、そんだけ笑えてるならもう大丈夫だろ。よかったな、嬢ちゃん」
 ガハハと笑って、大きな掌で栞の背中を叩く。痛かったけど、それ自体はなんとなく嬉しかった。その人は「まあ、怪我っつってもかすり傷だけどな」と言ってもう一度人懐っこい笑みを浮かべた。どうやら、本気でいい人らしい。
 だから、今更になって、最初に悲鳴を上げた事を申し訳なく思えてきた。それについてを謝ると、おじさんはまた髭を撫でながら「気にすんな」と言ってまた笑った。ついでに、助けてもらったお礼を言う。「助けてくれてありがとうございます、天使さん」
 茶目っ気を交えて、そう言った。もし、この人があの時見た羽の生えた人だったとしたら、少し幻滅だけれども、やっぱり嬉しかった。
 けれど、おじさんは少々困った顔をして言う。
「あー、スマン。訂正するわ。助けたのは俺たちであって俺じゃねえ」
 俺に羽なんか生えちゃいねえからな。とまた頭をかいた。どうやら、髭を撫でるのと頭をかくのはこの人の癖らしかった。
 そして、ゆっくりと栞に布団をかけ直すと、部屋のドアに手をかける。振り返って、言った。「まあ、その天使さんとやらを今呼んでくるわ」
「えっと、あの――」
 部屋を出て行こうとするその人に栞は声をかける。まだ、聞いてないことがあった。あまりにも親しみがありすぎて、すっかり失念していた。
 けれど、栞が訊ねる前に、男は答える。「あ、そうそう、俺はアルフォード・グレイウェルスってんだ。まあ、長いから気楽にアルって呼んでくれよ」
 さらに付け加える。あと、命の恩人だからって惚れちゃいけねえぜ。嬢ちゃんくらいの子は守備範囲外なんだ。そう言って、また髭を撫でる癖を見せたアルに栞はべーっと舌を出して応えた。
 バタンと扉が閉まる音が聞こえた。途端に、部屋の中が寂しさで埋め尽くされる。
 アルが本当に親しみやすい賑やかな人だったからだろうか。ううん。と栞は首を振る。
 彼はどこか祐一に似ていた。だからこそ、あんな風にすぐに打ち解けられたのだろう。彼が出て行った扉をじっと見つめて、栞はハァと深くため息を吐いた。
「会いたいな、祐一さん……」
 呟いた声は、誰にも届かないまま、部屋の隅へと消えていった。




 アルが部屋に戻ってきて最初に口にしたのは
「よう。俺の恋人」
 だった。
 そんな彼にむーっと頬を膨らませると、続いて入ってきた女の人が言った。
「いつからこの子はあなたの恋人になったのよ」
「いや、さっき愛の告白を受けたんだ。命の恩人たる俺のことに惚れたって」
 えへへーと笑うアルは本当に祐一にそっくりだった。なんというか、このどうしようもなさがまさに祐一である。それでいて、人を楽しくさせるところなんか本当にそっくりだ。
 けれど、そんなことを悟られてはまたからかわれてしまう。「違います!」とは大声で主張したけれど、後は至って澄ました顔で、ツンとそっぽを向く。
 そんな栞の様子をまったく気にせずにアルは言った。
「んで、コイツがあれだ。嬢ちゃんの言ってた天使さんだ」
 ツンツンと、指で隣にいる女の人を指す。
 その人は、鬱陶しそうにその指を跳ね除けた。そして、睨みつけるようにアルを見てから、栞へと顔を向ける。
 すごく綺麗な笑顔だった。
「はじめまして、じゃないわね。私はミア」
 そして、優しそうな顔から一転して、怖い顔。
「そこのバカと一緒にあなたを助けたのは一応、私よ」
 部屋の隅で、こそこそと逃げようとしてたアルを睨む。アルはというと、「いや、あとは若いもんに任せて退散するさ」みたいなこと言って一目散に逃げていった。
 しばらく、ドアの方に視線を向け続けたミアだったけれど、すぐにそれはため息にと共に消えてしまった。
「アルのことだから大丈夫だとは思うけど、あなた、あのバカに変なことされてない?」
 呆気にとられていた栞は「え、いや」と慌てたように返した。アルは確かにバカで、おかしくて、変ではあるが、別に悪い人じゃない。まだ出会ってほんの少ししか時間は経っていなかったけれど、それだけははっきりとわかっていた。
 だから、ほんのちょっとだけ居心地の悪そうに身を竦めながら「アルさん、別に悪い人じゃないと思うんですけど」と弁護する。なんとなく、ミアの様子がそれを許さない雰囲気を纏っていたから。だから、もしかして怒られるかも、なんて思いながら。
「まあ、悪い人間じゃないからこそ性質悪いというか……」
 だけど、予想に反して、ミアは怒らなかった。何かを思い出すように窓の外へ顔を向ける。長い髪がさらさらと風に靡いていた。
 今更だけど、やっぱり思う。ミアは美人である。天使だからとかそんなんじゃない。実際、今は羽もどこかに隠してしまっているけれど、すらっと背が高くて、けど、出るとこも出てる。何より、サラサラとした髪はほんの少しだけ茶色がかっていて、光を浴びてきらきらと輝いている。
 いいなぁ、なんて物欲しげにミアを見たことは自分の胸だけに秘めておこうと思った。
 そこで「あ、そうだ」と思い出す。
 羽のことも聞きたいけれど、それ以上に言わなければいけないことがある。
 あの時、自分の危機を救ってくれたのは確かに今目の前にいる女の人だ。だったら、そのことについてお礼を言わないと。きっと、アルもそれをさせる為に二人きりにさせてくれたんだと思う。
「なに?」とミアが顔を覗きこむように聞いてくる。ミアの瞳に、自分が映っているのがわかるくらいに近い距離。すぅーと息を吸って、吐く。
「あの、助けてくれてありがとうございました」
 おかげで私、まだ生きてます、なんて。冗談みたいに。えへへっと照れたように笑ってみた。
 けれど、ミアは急に顔を厳しくした。笑う栞に対して、こちらは固く口を詰むんでいる。
 小さな沈黙が部屋を支配していた。ミアは口を閉ざしたまま、何も話さない。栞もまた、そんなミアの様子に何も話せないでいた。ただ窓から漏れる風のざわめきだけが部屋を満たしていく。
 先に口を開いたのはミアだった。一つ、大きなため息を吐いて、厳しい視線を栞に送っている。
「いい?」と確かめるように。そして、言った。「あなたは生きてなんていないわ」
 何を言っているのか、栞にはわからなかった。ただ、呆然としたまま彼女に疑問符を投げ掛ける。
 だって自分はちゃんと此処にいる。心臓もちゃんと動いているし、こうして、ミアと二人で話している。それなのに、何故。
 疑問はすぐに答えとして、彼女の口から語られた。
 けれど、それを聞いた栞は呆けたまま、何も語ろうとはしなかった。
 やっぱり、と納得するように、もう一度だけため息を吐くと、ミアは部屋を出て行った。残された栞は、焦点の合わない瞳で、そんなミアを見送る。
 彼女の言った言葉はわかりやすくて、明確な答えだった。
 だからこそ、簡単に受け入れることなんかできなかった。そのまま布団に潜り込んで、せめてこんなに暖かくなかったら信じられるのに。なんて恨み言を言った。
 頬に涙か伝っていくのがわかった。もう、祐一や香里に会うことなんかできない。そう宣告されたみたいで怖かった。このまま、ずっと会えない自分を想像して、自然と涙が溢れていった。
 ぎゅっと胸を押さえる。冷たい手が暖かい想いで満ちてくる。そこにはあのストールが、自分が命の次に大切だと思っていた大切な姉からの贈り物がそこにあった。
 それを握り締めて、彼女はずっと泣き続けた。それでも消えることがない、途絶えることがないミアの言葉。


「だって、此処はあの世だもの。だから、あなたは生きてなんかいない」


 私も、アルも、ミアも。






 続く。